
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
プラトンの場合、創作の第一期と第二期の対話では、真理の対話性の認識は、[ソクラテスその人と比べて]弱まったかたちにおいてではあるが、哲学的世界観自体のなかにもまだ保たれている。したがって、これらの時期の対話は、プラトンにお
いて(教育的な目的で)既成の思想を叙述するだけの方法にはまだ転化していないし、ソクラテスもまだ「教師」に転化していない。4
時期区分のスタイルこそ異なりますが、バフチンとわたしたちの見立ては、大筋で一致します。中期(第二期)から後期(第三期)へかけて、とりわけ後期(第三期)の対話篇では、対話の形式を借りながら、もっぱらプラトンの哲学思想が叙述されます。形式的には「ダイアローグ」(対話)の装いがとられるものの、実質は作者による個人完結的な「モノローグ」(ひとり語り・ひとり言)と化します。それに応じて「探究者」のソクラテスが「教師」に仕立てられてしまうのです。
ソクラテスその人は、対面での「対話」の実践を通して、真理の個人的な所有を主張する「モノローグ主義」と対決しました。「自分たちはなにかを知っている」、「なんらかの真理を有している」と自負する人たちの「ナイーブな自信」を打ち砕きました5。真理というものは、複数の人間による対話という「社会的相互作用の過程」を通して初めて生成すると考えたのです6。それをバフチンは上の引用で「真理の対話性」と言い表しています。
バフチンはソクラテスとともに、「真理とそれをめぐる人びとの思考はもともと対話的である」、それに応じて「真理は、真理を共に探究する人びとの間で、またそうした人びとの対話的交通の過程で誕生する」と考えます7。しかも真理は、その都度の対話を通して、部分的にしか露わにされません。そのため真理の探究は完結することがありません。わたしたちは常に探究の途上にあり、探究者として生きるのです。
ペンをとらなかったのは、ソクラテスだけではありません。ブッダと孔子、イエスはいずれも、自らの思想を文章として書き残しませんでした。それはなぜか。ひとつには、具体的な他者との個別的な関係を離れて、「真理」にふれることはできないと考えたからでしょう。もうひとつには、書くという行為それ自体がモノローグへの傾斜をもつためです。ひとり部屋で机に向かって書くとき、他者との個別的で具体的な関係は、しばしば視野の外に置かれます。
とはいえ、書物はすべからくモノローグを免れない、というわけでもありません。現にバフチンはドストエフスキーの長編小説のうちに、ポリフォニーの響き合いを聴きとります。『饗宴』のモノローグとドストエフスキー長編小説のポリフォニーを、対比的に浮かび上がらせることにしましょう。
4 桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』岩波書店、2021 年、85頁。ただし表記を一部改めています。
5 同書82頁。
6 同書81頁。
7 同書82 頁。なおここで「交通」とは「相互作用」、特に呼びかける-応答する「関係一般」を指しています(同書4頁)。
