「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

『饗宴』のモノローグ

 前回紹介したように、中期の対話篇『饗宴』には政治家アルキビアデスが登場します。ソクラテスがスピーチを終えるやいなや、アルキビアデスが宴席に乱入し、酔いに任せて、師と哲学とに対する愛憎を告白します。それは文芸作品としてのドラマ性を高めているように思えます。しかし、ここで注意しておきたいことがあります。プラトンが『饗宴』を執筆した時点で、アルキビアデスはすでに死亡しているのです。それも戦犯としてアテナイを追われ、逃亡をくり返した果てに、無残にも暗殺されて。
 かつて同じ師のもとで学んだアルキビアデスは、いったいどこで道を誤ったのか。プラトンは自身の問題意識に基づいて、哲学と政治のかかわりについて「自問自答」します。そう、これはプラトンのモノローグなのです。生きたアルキビアデスはそこにいません。アルキビアデスには、当事者不在のまま評価が与えられます。アルキビアデスという登場人物には、師ソクラテスと改めて真摯に対話する機会、ましてや作者プラトンの想定を覆すような発言をする機会は与えられません。醜態をさらしながら、真情を吐露するだけです。作者プラトンは、彼自らが下す評価に対して、登場人物が異論を差しはさむ余地を残さないのです。
 ペロポネソス戦争後、アルキビアデスは異国に逃れて、どんなことを考えたのでしょうか。師の哲学する生き方とそこから離反した自らの歩みをどのようにふり返り、いかに生きようと試みたのでしょうか。バフチンはいいます。
 生きた人間を、当事者不在のまま完結させてしまうような認識にとっての、声なき客体と化してならない。人間のうちには、本人だけが自意識と言葉による自由な行為のなかで開示できるなにかが常に存在しており、それは当事者不在のまま外面
化してしまうような定義では捉えきれない。(略)人間は生きているかぎりは、自分がいまだ完結していないこと、いまだ自分の最後の言葉をいい終わっていないことを生の糧としているのである。8
 生きているかぎり、人間は未完結であり未完成です。それは人間の条件といってもよいでしょう。他者はもちろん、本人でさえも、「A はこういう人だ」と、ひと括りに捉えることはできないのです。では死とともに、ひとは完結するのでしょうか。これに関して、プラトン研究者の納富信留は次のように述べます。
 人と人が生きている間は対話は完結しません。生きている相手との対話は、つねに変わってしまうがゆえに、刺激的で生産的なのです。逆説的に聞こえることを承知で言えば、対話が一つの形と意味を持ちうるのは、亡くなった人、不在の人を相手
にした場合以外にはないということになります。9

8 前掲『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』15-6頁。
9 納富信留『対話の技法』笠間書院、2020年、158頁。

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