
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
死とともに各人の生涯は完結するから、変転する生者との対話とは違って、死者との対話は明確な輪郭を結び、意味が確定する。納富はこのように考えているようです。「一つの形と意味」という表現からは、プラトンと同様のモノローグ的な志向さえ窺われます。
ひとは死とともに完結するのか。死者は完結した存在なのか。この問いに対して、筆者は「否」と回答します。生者と同様、死者は他者として、その都度、新たに出会われるからです10。それとともに人物像(死者の像)が更新されます。
たとえば故人の遺品を整理するとき、個人が書き残した文章(日記や手紙、遺書)を読み返すたび、忘れていたことや知らなかったことが立ち現れます。それを通して読み手は死者と出会いなおし、「死者の物語」を語りなおします。もしそうだとしたら、人間は死してなお完結しない、無限の存在だといってよいでしょう。
そのような存在として自他を認め、対等な人格として遇することは、対話の成立条件です。相手を型にはめ、相手の声を封殺したのでは、対話になりません。『饗宴』でいえば、作者プラトンはアルキビアデスの「最後の言葉」に耳を傾ける必要があります。作者が予め考案したプロットに沿って、登場人物に所定のキャラクターがあてがわれ、物語の進行に応じて操作されるとき、登場人物は「人格」ではなく「客体」として扱われます。『饗宴』では、アルキビアデスが客体として扱われているのです。残りの登場人物たち、たとえばソクラテス以外の 4 人のスピーカーについてはどうか。わたしたちはこのような視点から、『饗宴』を読み返す必要がありそうです。
ドストエフスキー長編小説のポリフォニー
バフチンはドストエフスキーの長編小説、つまり『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』のうちに、ポリフォニー(複数の声)を聴きとります。これらポリフォニー小説では、他者の存在を意識しながら、登場人物たちが各々の声を発し、対話が進行します。モノローグ小説と異なり、少なくとも主要な登場人物たちは、作者に従属的な「客体」ではなく、自立的な「人格」として言動します。作者によって予め考案され、あてがわれたセリフを吐くにととまらず、自身の言葉をもつ主体としてふるまうのです。ちょっと奇妙に感じられるでしょうか。もうすこし詳しく見ていくことにしましょう。
ポリフォニー小説では、それぞれの言葉や意味の担い手として、主要な登場人物が出来事に立ち会い、対等に対話に参加します。互いに混淆したり融合したりすることなく、それぞれの独立性を保ちながら、呼応的な関係を築きます。それはいったいどのようにして可能となるのか。ここで作者は、登場人物たちとともに、出来事に立ち会い、対話に参加することを求められます。バフチンはそれを次のように表現します。
10 竹之内裕文『死とともに生きることを学ぶ 死すべきものたちの哲学』ポラーノ出版、
第2版、2023年、77-8頁。
