
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
〈他者〉を知り〈他者〉に到達するというもくろみは、他者との関係のうちで、言葉という関係のうちにひそむ関係のなかで達成される。言葉という関係の本質は呼びかけであり、呼格であるからである。他者は呼びかけられたとたん、その異質性
において維持され確証される。(略)[そのようにして]召還された者は、わたしが理解する者ではない。召還された者はカテゴリーに属してはない。召還された者とは、わたしが言葉で語りかけるものである。16
〈他者〉は無限な主体ですから、いかなる本質規定も定義も受けつけません。「わたし」のうちに回収されず、「わたし」の理解を常にすり抜けていきます。そのような他者へ接近するためには、どうしたらよいのでしょうか。レヴィナスの回答は「呼びかける」、「語りかける」です。
「わたし」が呼びかけると、呼びかけられた人は、言葉のうちへ連れ戻され(召還され)、 語るように促されます。その促しに応じることで、その人は語ります。このようにして呼びかける-応えるという対話の出来事が生まれます。
対話は言葉に依拠しています。そして人間の言葉そのものが能動的な「呼びかけ」として、関係的な性格を有しています。バフチンの表現を借りれば、「言葉とは、わたしと他者のあいだに渡された架け橋」であり、「共通の領土」です。17人間は言葉を使うかぎりで、常に、すでに、他者との対話的な関係に置かれているのです。
それに応じてすべての発話は、宛先をもっています。目の前の相手や同時代人ではなく、未知の読者や未来世代が宛先となる場合もあるでしょう。いずれにしても、わたしたちはだれかへ向けて発話するのです。発話は応答を期待します。「言葉にとって(したがってまた人間にとって)応答がないことほど、おそろしいことは」ありません。18じっさい発話には、なんらかのかたちで応答があります。即座に応答が返ってこないことも、応答が発話者の思い描いたものと異なることもあるでしょう。それでも発話は、なんらかの応答を伴います。
見方を変えれば、わたしたちが発する言葉は、現在までの呼びかけ、語りかけに対する応答だといえます。他者から投げかけられた言葉を受け継いで、わたしたちは言葉を発しているからです。そのような仕方で、わたしたちは他者に応答しているのです。わたしたちの発話は常に、他者との対話関係のうちにあります。発話という行為を通して、わたしたちは過去と現在の他者に応答し、現在と未来の他者に呼びかけるのです。それを踏まえてバフチンは、次のように述べます。
世界では最終的なことはまだなにひとつ起こっておらず、世界の最後の言葉、世界についての最後の言葉は、いまだ語られていない。世界は開かれていて自由であり、一切はまだ前方にあり、かつまた常に前方にあるであろう。19
16 レヴィナス『全体性と無限(上)』熊野純彦訳、岩波文庫、2005年、123頁。ただし表記
を一部改めています。
17 前掲『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』48頁
18 同書47頁
19 同書162頁。
