「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

 こうして主体的思想家には、「二重の省察」(Dobbelt-Reflexion)が要請されることになります。一方で、主体的思想家は「私たちにとって」の真理、つまり「普遍的な真理について思考する」ことを求められます。「この私にとってだけの真理」を「真理」と呼ぶことはできないからです。しかし他方で、「主体的」な真理を問題とするかぎり、主体的思想家は、自分の主体性や実存を棚上げすることができません。それに応じて普遍的な真理を自身の主体的な生き方に関連づけて思考することが求められます。「普遍的な真理を自己の内面にかけて獲得する」態度、普遍的な真理を自分のものにするための内省が要請されるのです。
 裏を返せば、著書などで、自らの思想をそのままのかたちで提示する直接的な伝達スタイルには、真摯な実存的態度とそれを支える内面的な省察が欠けているということになります。しかも直接的に伝達された事柄は、客観的な真理や知識として受けとられるため、相手(被伝達者)の実存や主体的な生き方に働きかけることができません。
 このような洞察に基づいて、キェルケゴールはソクラテスの助産術を手引きに、「間接的伝達」という手法を練り上げていきます。通常の著書のように、著者の思想や主張を直接に表明するのでなく、むしろ読者一人ひとりが実存に目覚め、主体的な真理の探究へ赴くことを企図して、彼は著作家活動を開始するのです。それと並行して、キェルケゴールは日記を書き続け、キリスト者としての自身の生き方とそれを支える思想と内省的に向き合います。このような仕方で「二重の省察」を遂行するのです。

キリスト教界にキリスト教を再導入する

 主体的な真理の探究は、キェルケゴールをひとつの使命へ導きます。それが「キリスト教界にキリスト教を再導入する」というミッションです。彼はこれを神から与えられた任務と受けとめるのです。
 「再導入する」というのですから、キリスト教界にはキリスト教の重要な要素が欠落していることになります。キェルケゴールはなにを問題にしているのでしょうか。
 最大の問題はキリスト教の制度化です。デンマークでは 1849 年、王国憲法が公布され、立憲君主制が導入されます。それとともに教会制度は、国家教会(Statskirke)から国民教会(Folkekirke)へ移行します。国家教会は、人口調査など行政的な役割を請け負っていました。聖職者は王によって任命され、教会は国家統治の一翼を担っていました。
 国家による統制を脱したとはいえ、国民教会は、国家との緊密な結びつきのもとにとどまります。牧師は国家の制度に組み入れられ、公務員に準じた扱いを受けます。キリスト者であるとは、(誕生直後に)洗礼を受けて教会に所属することを意味します。万人がキリスト者である教会制度のもとでは、キリスト者であるとはどういうことか、真摯に問われることがありません。キリストの呼びかけに応えることなく、それゆえキリストに従って生きることなく、キリスト者として社会生活を営むことができるのです。それに対してキェルケゴールは、キリスト教界にはキリストが不在だと告発するのです。
 これはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(第2部第5編5章)における「大審問官」の物語を思い起こさせます。それはカラマーゾフ兄弟の次男イヴァンによる創作で、彼はそれを三男のアリョーシャに語ってきかせるのです。

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