「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

 物語の舞台は 16 世紀のスペインのセビリアです。市街地の広場では、連日のように異端者の焚刑が執行されています。そこに「彼」が現れるのです。彼はひと言も発さず、身を明かしません。しかし民衆はその正体に気づき、熱狂して彼を取り囲みます。そして福音書と同じ言葉を彼に投げかけます。そこに異端審問の責任者である大審問官(90歳)が通りかかり、問いかけます――「おまえはあれ[キリスト]なのか?」。彼は口を開きません。大審問官は次のように続けます。

答えなくともよい。黙っていなさい。第一、おまえに何を話せるという? おまえが何を言うかはわかりすぎるくらいわかっている。そうとも、おまえは、むかし自分が言ったことに何ひとつ付けくわえるべき権利をもっていないのだ。なぜ、われわれの邪魔をしに来た? なんにしろ、おまえはわれわれの邪魔をしに来たのだし、それは自分にもわかっているだろう? でも、ほんとうにわかっているのか。明日、何が起こるか? おまえが何者かなど知らないし、知りたくもない。おまえがあれなのか、それともたんにその似姿にすぎないかなど。だが、明日にはおまえを裁きにかけ、最悪の異端者として火あぶりにしてやる。そうしたら、今日おまえの足に口づけをした民衆も、明日はわたしの指一本の合図で火あぶりの焚き火めがけ、われ先に炭を投げこむのだよ、それがわかっているのか? そう、おまえはきっとそのことがわかっている。8

 大審問官のモノローグ(ひとり語り)は続きます。ローマ・カトリック教会には、教皇を頂点にした制度が確立しています。また聖書の言葉を厳密に解釈する神学も確立しています。大審問官の見るところ、民衆たちは生活に困窮することなく、現状の暮らしに満足しています。そこにはキリストが入りこむ余地などないのです。どのように生きるのかという実存的な課題や主体的な真理など問題にならないし、民衆にとっては重荷でしかない。このように大審問官は説きます。「彼」は沈黙を守ります。そして最後に、無言のまま、90 歳の老人にキスをするのです。
 このような仕方で、キリスト教界はキリスト教を抹殺してしまいました9。このように指摘するとき、キェルケゴールはキリスト教の中核に、イエス・キリストを置いています。「イエス」とは、辺境の地ガリラヤ(ナザレ)で生活した貧しい男の名前です。「キリスト」とは、「救い主」を意味するヘブライ語「メシア」に対応するギリシア語です。「イエス・キリスト」という呼称は、イエスという生身の人間こそ神が遣わした救い主であるという信仰を表明しているのです。しかしイエス・キリストについては、イエスとキリストの一方が強調され、他方が度外視されがちです。

8 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟 2』亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、2006 年、260-1 頁。
9 キルケゴール『キリスト教の修練』井上良雄訳、新教出版社、2004 年、46 頁。ただし訳語は変えてあります。

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