
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
キリストは福音書で描かれるイエス・キリストに限定される。そのように想定するかぎり、わたしたちは大審問官とともに、キリスト教界の公式見解を支持し、目の前の他者がキリストである可能性を排除し続けることになります。
キリストは福音書で描かれるイエス・キリストに限定されない。このように考えるとき、わたしたちははじめて、他者としてのキリストと出会うことができます。目の前の他者はキリストであるかもしれないのです。ではだれがキリストであり、だれがキリストでないのか。それを確定することができませんし、また確定すべきでもありません。確定しようと試みるかぎり、異端審問や魔女裁判のように、相手の正体を問いただし、キリストとしての要件を備えているかを厳しく審査することになるでしょう。これは他者を他者として遇する態度とはいえません。むしろ自分の判断基準で白黒をつけ、他者の他者性を抹消しようとする試みです。
目の前の他者はキリストであるかもしれない。その可能性に開かれたまま、いわば宙吊り状態のまま、他者と出会うこと、それが他者としてのキリストと出会うということなのです。一つひとつの出会いによって変えられ、開かれて、わたしたちは〈キリスト者〉になっていくのです。
そのとき王は自分の右にいる者たちに言うだろう。来たれ、わが父の祝福された者たちよ。世界のはじめから、あなたたちのために備えられた国を受け継ぐがよい。すなわち、わたしは飢えたが、あなたたちはわたしに食べさせてくれた。わたしは渇いたが、あなたたちはわたしに飲ませてくれた。わたしはよそ者であったが、あなたたちはわたしを迎え入れ、裸であったが、着せ、弱っていたが、世話し、獄にあったが、訪れてくれた。そのとき義人たちは彼に答えて言うだろう。主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えていたところを見て食べさせ、渇いていたところを飲ませましたか。いつわたしたちは、あなたがよそ者であったところを見て迎え入れ、裸であったのを着せましたか。いつわたしたちは、あなたが弱っていたところを、あるいは獄にいたところを見て、訪れましたか。そして王は答えて彼らに言う。アーメン、あなたたちに言う。これらのもっとも小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのと同じことである。(マタイ福音書 25 章 34-40 節 11)
前篇はここまでです。後篇は次回お届けします。どうぞ楽しみにお待ちください。
11 田川健三『新約聖書 訳と注 第 1 巻』作品社、2008 年 113-4 頁。ただし表記は一部変えてあります。

竹之内 裕文(たけのうち・ひろぶみ)
静岡大学未来社会デザイン機構副機構長、農学部・創造科学大学院教授。専門分野は哲学・死生学。東北大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。東北大学大学院文学研究科助手、静岡大学農学部・創造科学技術大学院准教授を経て、2010年4月より現職。ボロース大学(スウェーデン)健康科学部客員教授(2011-12年)、グラスゴー大学(英国)学際学部客員教授(2022年)、松崎町まちづくりアドバイザー(2022年-現在)。 「対話」と「コンパッション」を柱に、国内外で広く活躍している。死生学カフェ、哲学塾、風待ちカフェ、対話・ファシリテーション塾などを主宰する。団体コンパッション&ダイアローグ(一般社団法人化を予定)代表。『死とともに生きることを学ぶ 死すべきものたちの哲学』(ポラーノ出版)により第14回日本医学哲学・倫理学会賞を、研究発表「『死』は共有可能か? ハイデガーと和辻との対話」により第8回ハイデガー・フォーラム渡邉二郎賞を受賞。
(モルゲンWEB20260404)
