「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

 もっぱら前者に目を奪われると、「この人は大工ではないか」(マルコ福音書 6 章 3節)と嘲(あざけ)り、「ナザレから、どんなよいものが出ようか」(ヨハネ福音書 1章 46 節)と疑念を抱くことになります。ほとんどの同時代人にとって、イエスは躓きの石でした。
 他方で、もっぱら後者が強調されると、生身の他者としてのイエスが抹殺され、キリストとして祭り上げられることになります。これこそ教会の制度化とともに、ローマ・カトリック教会やロシア正教会、デンマーク国教会などのキリスト教界が辿ってきた道です。前回の連載で引いたバフチンの言葉を、ここで思い起こしておきましょう。

生きた人間を、当事者不在のまま完結させてしまうような認識にとっての、声なき客体と化してならない。人間のうちには、本人だけが自意識と言葉による自由な行為のなかで開示できるなにかが常に存在しており、それは当事者不在のまま外面化してしまうような定義では捉えきれない。(略)人間は生きているかぎりは、自分がいまだ完結していないこと、いまだ自分の最後の言葉をいい終わっていないことを生の糧としているのである。10

 他者としてのキリストとの出会いについても、これと同様のことがいえるでしょう。プラトンは『饗宴』において、当事者不在のまま、相手に発言の機会を与えることなく、アルキビアデスに評価を下します。同様に『カラマーゾフの兄弟』の大審問官は、生身のイエスに耳を傾けることなく、キリスト教を完結させてしまうのです。ここに見られるように、キリスト教界は、イエス・キリストを排除することによって成り立っています。キリスト教界にキリスト教を再導入するためには、他者としてのキリストとの出会いが欠かせません。イエス・キリストの言動を、まさに「この私」に向けられたものとして受けとめ、生きる必要があります。それによって初めて「私」と「あなた」は〈キリスト者〉になっていくのです。

10 桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』岩波書店、2021年、15-6頁。

関連記事一覧