柳家 わさびさん(落語家)
国民的バラエティ番組『笑点』――。そのスピンオフ番組『笑点特大号』の演目「若手大喜利」には欠かせない顔がある。柳家わさびさん。老若男女に分かりやすく工夫された「落語紙芝居」はお茶の間に新鮮な風を吹き込んでいる。落語は語り手から語り手へ遺伝子を受け継ぐもの。ただ演じるのではなく、作品に人間をしみ込ませたい――高みを目指す精神の原動力を訊ねた。
わさびさんが生まれたのは母の郷里、福井県。産後すぐ一家は東京の北千住に居を移し、そこで5歳までを過ごした。その後、住まいが火事にあい沼袋に越すことになるのだが、いまも鮮やかに蘇る幼年期の原風景はこのころからのものだ。アスレチックが大好きで活発な少年は、力一杯太陽に向けのばす小さな手のひらとは裏腹に、生来の病を抱えていた。心室中隔欠損症――心室を隔てる壁に空いた小さな穴からは、微量だが通常より多くの血が流れ出し、僅かずつではあるが確実に弁に影響を及ぼしてゆく。「5キロ以上走っちゃいけない――」医者にもそう注意されているし、毎年の検査もかかせない。とはいえやはりそこは子ども盛り。心配する両親をよそに、少年は無心で公園のアスレチックに身を投じた。
中学生になると少年マンガに夢中になった。1990年代、日本のマンガ文化は大輪の花を咲かせ、黄金期を迎えていた。世はまさにサブカルチャー全盛時代――その熱気の渦に心地よく酔いながら、少年はひたすらにマンガを書いた。もともと絵は得意だったということもある。大人になったら漫画家になりたいな……、新人マンガ賞応募ページをめくりながら時折そんなことも夢想する。高校では美術コースを専攻――。こう聞くと、いよいよもう漫画家一本とも思えるが、意外にもそういうわけでもなかったらしく、あくまでも漫画家は憧れ、高嶺の花と、出版社などへの持ち込みを考えることもなかったようだ。両親の離婚、そして母の再婚――少年期から難しくなりはじめた家庭環境は少年が夢を抱えることを容易には許さなかった。
大学は日大芸術学部油絵学科を撰んだ。とくべつ深い考えがあったわけではない。あえて言うなら流されるまま――。それでも、子どものころ見たテレビ番組『ゴールド・ラッシュ!』……画面狭しと暴れるお笑いコンビ『爆笑問題』に笑い転げていると、きまって風邪が治っていた。小さいころ、病弱で、よく風邪をひく子どもだった。そんな少年にとって二人は風邪を吹き飛ばしてくれるヒーローだった。そのヒーローと同じ大学に入った――そう思うと悪い気はしない。お笑いに導かれ入った学び舎……、そしてそこで、一生の仕事と出会うことになる。