
対話的探究への招待――哲学すること、対話すること
はじめに 対話的探究への招待
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」と題して、今月から連載を担当します。毎月1章ずつ書き進めていきます。全体として14章の構成になる予定です。長丁場になりますが、根気強くお付き合いいただければ幸いです。
自己紹介に代えて、はじめに「哲学」と「対話」との出会いを手短にふり返っておきます。キーワードは「経験」です。
筆者は19歳のとき、父親と死別しました。それ以前は、「死」を抽象的に理解していました。人はいずれ死ぬ。でもそれはさしあたり今ではないだろうし、この私でもないだろう。そのように想定していました。「大切なものはそんなに簡単に奪われやしない、かけがえのない人はたやすく死なない」と、どこかで高を括っていたのです。しかし、父との死別の経験から、「いかにかけがえのないものであっても、いとも簡単に奪い去られる」ということを、身をもって知りました。そうだとしたら、自分という「かけがえのない」存在も、いつ奪い去られても不思議ではない。そう考えると、なにも手につかなくなってしまいました。父との死別を通して、筆者は「死」を経験したのです。
フランスを拠点に活動した森有正という哲学者は、「私たちが、抽象的に知っている言葉にほんとうに内容を与え、ほんとうにそれを定義するものを、私たちに与えてくれる」ものを「経験」と呼びます。「経験こそが、私たちのかかえる重要な問題に、ほんとうの定義を与えてくれる」と考えるのです。すこし長い引用になりますが、彼の洞察に耳を傾けておきましょう。
「たとえば真理とはこういうものだ、美とはこういうものだ、と私たちはいろいろ考えています。(略)ある一つの言葉があれば、その言葉は意味をもっていると考えます。たとえば正義なら正義という言葉も、意味をもっていると考えます。ところが正義というものが、いかなる内容をもつものであるかということになると、実は言葉で定義することはできないのです。むしろ私たちがある一人のひとに出会ったとき、もしくはある一つの事柄に出会ったとき、それを通して正義というふうに呼ぶ以外、呼びようがないという状況に出会ったときに、初めてそこに正義が成立するわけです。たとえばソクラテスが、毒をあおいで死んだ、ある人がある人を救うために、自分を犠牲にして生命を捨てたというとき、そこにほんとうに正義あるいは善というものが、言葉ではなく現実の人生の事実として存在するのです。そのときに私は、自分の知っている正義という言葉をそれに与えるのです。1
1 森有正『いかに生きるか』講談社現代新書、講談社、1976年、60-61頁。ただし表記は一部変えてある。