連載「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

第4回 対話の枠組みを広げる
~死者との対話は可能か?~

月に1回のペースで寄稿すると初回に宣言したにもかかわらず、諸般の事情により、8月と9月は寄稿することができませんでした。楽しみに待ってくださっていた方々に、まずお詫びいたします。
 その間、静岡県三島市で第3回対話ファシリテーション塾(8月9-10 日)を開催しました。この塾には全国から、多様な背景や経験をもつ方々が集まり、「対語」と「ファシリテーション」を体験し、学び合います。志を共有する人たちが集まって切磋琢磨するというスピリットを明確にするため、「塾」と命名しています。
 今年度の塾では、本連載第3回の原稿「対話とはなにか」を事前に配付し、参加者に読んできてもらいました。そのうえで以下の3つの問いをめぐって対話しました。

1.対話するとはどういうことか?

2.対話にはどのような意義があるか?

3.対話に欠かせないものはなにか?

 この対話のなかで、ある女性の参加者が発言しました。彼女は9年前に夫と死別した経験を踏まえて、「対話とはなにか」という原稿を読んだ感想を共有してくれました。
 死別後も、折にふれて夫と対話してきたつもりでいた。しかしこの原稿を読んで、考えが揺らいだ。それは厳密にいえば、対話でなかったかもしれない。対話した気になっていただけかもしれない。
 この当惑・疑問に応えるべく、わたしたちは続くプログラムで「死者との対話は成立するのか?」という問いを立て、対話を試みました。
 これと似たような反応は、身近なところでもありました。妻にはいつも、提出する前に原稿を読んでもらい、フィードバックを受けます。第3回の原稿を読んでもらったところ、「自己との対話」や「死者との対話」、「自然との対話」について筆者自身はどう考えるのか知りたい、というリクエストをもらいました。読者のなかにも、これと同じような感想をもたれた方がおられるかもしれません。それに応えるべく、今回は予定を変更して、「死者との対話」というテーマをとりあげることにします。前回の内容を手短にふり返りながら、問いを設定することにしましょう。

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