「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

助産術と間接的伝達

 実存する者として、私たちは他者とどのような関係を結ぶことができるのでしょうか。他者とは、自分の理解を常に超え出る存在です。他者を自己の理解のうちに回収することは、他者の他者性を剥奪することにほかなりません。ならば他者を理解するためには、どうしたらよいのでしょうか。ここで鍵を握るのが「対話」です。私たちは他者と対話的な関係を築くことができるのです。それはキリストとの関係についても、他の実存する者との関係についてもいえます。キリストとの関係について、キェルケゴールは1848年の日記に、次のように記します。

ひとは、自分にとってキリストがすべてであるかどうか、そして「私はここにすべてを置く」と言えるかどうか、自分自身に尋ねる。だが、キリストとの関係についての直接的な確実性、それを私は手にすることができない。私が信仰を有しているかいなかについて、私は直接的な確実性を手にすることができないのだ――というのは信じるとは、まさにこうした弁証法的な宙吊り、絶え間ないおそれとおののきのうちにありながら、それでも絶望しない弁証法的な宙吊りだからである。12

 他者についての理解は完結することがありません。相手の他者性を尊重するかぎり、私たちは他者と自己のあいだで宙吊りになることを余儀なくされます。他と自を統合することも、いずれか一方を他方に還元することもできないからです。そのような他者との関係を、キェルケゴールは「弁証法」(Dialektik)という語で表現するのです。
 他者としてのキリストについて、私たちは直接的な確実性を手にすることはできません。しかし「不知の自覚」とともに、呼びかけに耳を傾け、応えるという対話的な関係を築くことはできます。実存する者の「信仰」は、不断に問いかけ、聴くことを通して、神意を尋ね求める生き方において体現されるのです。哲学することにおいてと同様、信仰することにおいても、私たちは常に途上にあり続けるのです。
 他の実存する者との関係については、どうでしょうか。「あなた」と「わたし」は、実存する者として、探究者として、ともに真理への途上にあります。「わたし」が「あなた」に対して真理――問いに対する答え――を直接に提示すること、それは「あなた」の主体的な真理の探究を妨げ、「あなた」の自由を奪うことを意味します。それを自覚していたからこそ、ソクラテスは対話的探究において、決して答えを示さないのです。
 そもそも主体的な真理は直接的に伝達することができません。『饗宴』でディオティマが若きソクラテスに伝えるように、人間は男女を問わず身ごもっています13。時機をえて、子どもや作品、知恵など、美しいものを産み育てます。人間としての卓越性を開花させ、美しい業を成し遂げます。キェルケゴールはここに「信仰」を加えます。ただし産むのは、あくまで本人です。共に真理を探究する者は、当人の傍らで、その出産の手助けをするほかありません。それがソクラテスの「助産術」です。キェルケゴールはソクラテスの「助産術」を手引きに、「間接的伝達」の手法を練り上げ、それに基づいて著作家活動を展開します。1847年の日記に彼はこう記します。

12 前掲『キェルケゴールの日記――哲学と信仰のあいだ』145頁。
13 プラトン『饗宴』中沢務訳、光文社古典新訳文庫、2013年、136-149頁(206B-210D)。

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