「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

 〈実存〉は主体的に、身をもって生きられる人間のあり方であり、外部から客観的・抽象的に捉えることができません。「現代の不幸は、あまりにたくさんのことを知りすぎ、実存するとはどういうことか、また内面性とはなにかを忘れてしまった」ところにあります8
 神は永遠性によって特徴づけられるため、実存しません。それと対照的に、人間は有限な存在者として時間のうちに身をおき、実存します。神との対比でいえば〈実存〉とは、永遠の外へ投げ出され、この世界のうちに出で立つ(ex-sistere)人間のあり方を表しているのです9
 私たちは永遠性ではなく、時間性のうちに身をおいています。そこでは万物がたえず生成消滅します。私たち一人ひとりも、生れ落ち、老い、病をえて、死んでゆきます。永遠については、「不知」こそが私たちにふさわしい態度であり、ソクラテスの「不知の自覚」は、永遠と時間、神と人間の絶対的差異を表現しているのです。
 しかし客観的な認識においては、認識の対象に注意がむけられ、認識する者の自己が顧みられません。認識する者自身が実存すること、それゆえ時間性のうちで変転することが見失われるのです。キェルケゴールは、次のように指摘します。

主体性、内面性が真理であるという命題には、ソクラテスの知恵が含まれている。そして彼の知恵の不滅の功績はまさに、実存することの、認識者が実存することの、本質的な意味に注意を払ったという点にある。10

 永遠と時間のあいだには絶対的差異があり、それは認識によっては埋められません。しかし実存する者として、自らの「不知」を自覚し、自身の生き方を誠実に探求し続けるならば、永遠の真理は逆説的に立ち現れます。

ソクラテスの不知とは、永遠の真理が実存する者に関わることについての、それゆえ彼が実存するかぎり永遠の真理は一つの逆説であり続けざるをえないことについての、内面性の情熱すべてをもって保持される表現だったのである。11

 たとえば「魂の不死性」について、直接的で確実な知を手にすることはできません。それを踏まえてソクラテスは、客観的な論証に訴えるのでなく、むしろそれを信じて、魂に配慮する生き方を全うします。彼自身の生き方のうちに、「魂の不死性」の真理を体現するのです。キェルケゴールその人は、以下に見るように、キリストという他者との関係において、ソクラテスと同様の態度をとります。

8 『原典訳記念版キェルケゴール著作全集 第6巻』大谷長訳、創言社、1989 年、575 頁。
9 鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜 キェルケゴールをつなぐ者たち』講談社、2022年、73頁。
10 前掲『原典訳記念版キェルケゴール著作全集 第6巻』、505頁。
11 同書、502頁。ただし訳語は一部変えてあります。

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