
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
『哲学探究』では、外国人や子どもなど「われわれの言語を理解しない者」との言語的コミュニケーションに題材が求められます。これと呼応してポリフォニー小説では、社会階層や生活空間を異にする個性的な登場人物たちがポリフォニー(多声)を奏でます。各人はそれぞれの言葉や意味の担い手として、「相異なるコンテクストや相異なる視点、相異なる表現的アクセント体系、相異なる社会的〈言語〉」を携えて登場します11。自分と異なる言語ゲームに属する者として、他者が姿を現すのです。この点について柄谷行人が重要な指摘をしています。やや長い引用になりますが、紹介しておきましょう。
通例のコミュニケーション論では、共通の規則が前提されている。だが、外国人や子ども、あるいは精神病者との対話においては、そのような規則はさしあたって成立していないか、または成立することが困難である。これは、特異なケースだろうか。
われわれがだれでも子どもとして生まれ、親から言語を習得してきたということは、けっして特異なケースではなく、一般的な条件である。また、われわれが他者との対話において、いつもどこかで通じ合わない領域をもつことは、一般的にいえることだ。その場合、よりよく互いに理解しようとするならば、相手に問いたださねばならず、あるいは相手に教えなければならない。いいかえると、それは「教える―学ぶ」関係に立つということである。共通の規則があるとしたら、それは「教える―学ぶ」関係のあとにしかない。
「教える―学ぶ」という非対称的な関係が、コミュニケーションの基礎的事態である。これはけっしてアブノーマルではない。ノーマル(規範的)なケース、すなわち同一の規則をもつような対話の方が、例外的なのである。だが、それが例外的に見えないのは、そのような対話が、自分と同一の他者との対話、すなわち自己対話(モノローグ)を規範として考えられているからである。12
11 同書、46頁。
12 柄谷行人『探究Ⅰ』講談社学芸文庫、1992年、10-11頁。
