「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

 このようにソクラテスの場合、主体的な真理の探究は、もっぱら対話を通して進められます。対してキェルケゴールは、執筆活動を通して主体的な真理の探究を遂行します。他者とともに探究するという点で、この違いは無視できません。書くという行為はモノローグへの傾斜をもつからです。ひとり部屋で机に向かって書くとき、具体的な他者の姿は後景に退きます。他者が属する異なった言語ゲームは、そこには立ち現れません。他者との個別的で具体的な関係は、視野の外におかれます。
 しかし、書くことはすべからくモノローグを免れない、というわけでもありません。現にバフチンはドストエフスキーの長編小説のうちに、ポリフォニーの響き合いを聴きとります。そしてポリフォニー小説の着想は今や、オープンダイアローグの対話実践に受け継がれています。
 キェルケゴールその人は、ソクラテスの助産術を手引きに、「間接的伝達」という方法を練り上げます。哲学書ではたいていの場合、著者自身の思想や主張がそのまま書き記されます。読者として想定されるのは、具体的な他者ではなく、一般化された抽象的な他者(読者一般)です。しかし間接的伝達の場合、著者は読者一人ひとりが主体的な真理の探究へ赴くことを企図し、相手(被伝達者)の実存や主体的な生き方に働きかけようと試みます。読者としてだれを想定するかに応じて、著書のテーマや文体などが違ってきます。さらにキェルケゴールは、著書の種別(美的/宗教的著書)と段階(宗教的段階)に応じて、仮名の著者名を使い分けました。そして晩年は、仮名を脱ぎ去って、教会闘争に身を投じます。デンマーク国教会のリーダーたちを告発する文章を雑誌『祖国』に、次いで自作の小冊子『瞬間』に、次々に掲載するのです。
体制派キリスト教を敵にまわした孤独な戦いは、エルサレムの神殿で暴れるイエスや、アテネで裁判にかけられるソクラテスの姿を想起させます。
 探究者として、「あなた」と「わたし」は、ともに真理への途上にあります。同時に、それぞれ実存する者として、互いに対して他者であり続けます。目の前の他者は、その具体的な姿のまま、現実の他者として迎え入れられなければなりません。他者性を希釈され、一般化された抽象的他者に還元されてはなりません。それによって「他者との対話」が「自己対話」に変質し、「哲学」が「対話」から切り離されてしまうからです。他者とともに、衝突や闘争をはらみながら遂行されることで、主体的な真理の探究は徹底したものとなるのです。理解しがたい他者の言動や否を突きつける他者の存在を欠くところでは、主体的な真理の探究は、自己満足的なものにとどまるでしょう。主体的な真理の探究としての哲学と対話には、自己とともに、生き生きとした他者が欠かせないのです。

竹之内 裕文(たけのうち・ひろぶみ)

静岡大学未来社会デザイン機構副機構長、農学部・創造科学大学院教授。専門分野は哲学・死生学。東北大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。東北大学大学院文学研究科助手、静岡大学農学部・創造科学技術大学院准教授を経て、2010年4月より現職。ボロース大学(スウェーデン)健康科学部客員教授(2011-12年)、グラスゴー大学(英国)学際学部客員教授(2022年)、松崎町まちづくりアドバイザー(2022年-現在)。 「対話」と「コンパッション」を柱に、国内外で広く活躍している。死生学カフェ、哲学塾、風待ちカフェ、対話・ファシリテーション塾などを主宰する。団体コンパッション&ダイアローグ(一般社団法人化を予定)代表。『死とともに生きることを学ぶ 死すべきものたちの哲学』(ポラーノ出版)により第14回日本医学哲学・倫理学会賞を、研究発表「『死』は共有可能か? ハイデガーと和辻との対話」により第8回ハイデガー・フォーラム渡邉二郎賞を受賞。

(モルゲンWEB20260704)

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