
「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話
良心に苦しめられ、そのため仕事ができない。キェルケゴールの著作を読んで、これまでもそうだったが、いっそう不安になった。私は苦しもうとしない。このことが私を不安にさせる。(略)
けっして自分を欺こうとしないこと、これを我に堅く守らせよ。すなわち、自分が認識する自分に対する要求を、くりかえし自分自身に対して要求として告白すること。これは私の信仰と一致する。あるがままの私の信仰と一致する。(略)新約聖書に述べられていることのどれほどが正しく、どれほどが間違っていようとも、疑いえないことが一つだけある。つまり、正しく生きるためには、私は自分に心地よい生き方とはまったく違ったように生きなければならないだろう、ということである。つまり、生きるとは表面で見えているよりずっと真剣なものだということである。生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ。(1937年2月13日)2
ここには、キェルケゴールとともに主体的な真理を探究する態度が見てとられます。じっさい「真剣さ」はキェルケゴールにとって、宗教的な生を特徴づける重要な概念です3。「自認」についていえば、それは理想の自分を演じないことを要請します。これに関してウィトゲンシュタインは、次のように記しています。
自分の理想を演じようと望まないのは、なんと難しいことか! そして理想を自分から切り離して、それがあるままの場所において見るのは、なんと難しいことか! (同年1月28日)4
ここでは、「理想の自分」を演じてしまうという生の苦悩とともに、「理想」(Ideal)そのものの捉え方が表明されています。私たちは往々にして、理想に照らして現実を評価します。しかし、理想を基準に現実を裁断するという発想は倒錯しています。理想を追い求めるかぎり、あるがままの現実は常に不完全にとどまり、いつまで経っても認められることがありません。それは自己だけでなく、世界や言語の理解についてもいえます。
「言語ゲーム」という着想
この洞察とともにウィトゲンシュタインは、数学をモデルにした理想的な言語、いわば「究極の言語」から論理体系を構築し、これに照らして世界の基本構造を見定めるという、自身のそれまでの(『論理哲学論考』に結晶化された)哲学的態度を手放します。むしろ現実に私たちはどのように言語を使用しているのか、日常生活において言語はどのような役割を果たしているのか、これを注視しながら、言語をめぐる考察を展開していきます。
2 『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』鬼界彰夫訳、講談社、2005 年、116-7 頁。ただし訳語を一部変えてあります。
3 たとえば「埋葬の機に」と題された講話では、「死」の「真剣さ」が次のように語られます。「死はまさしく、真剣さが内面的なもののうちに、思想のうちにあることを教えることができる。(略)もしひとが本当に真剣な一つの対象をあげようとするなら、そのときひとは死を、そして『死の真剣な思想』をあげるであろう」(『キルケゴールの講話・遺稿集4』飯島宗享編、新地書房、1983年、361頁)。
4 前掲『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』、100-1頁。
