「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

 ここで柄谷は、「語る-聞く」という関係に、「教える―学ぶ」という関係を対置しています。後者の関係は非対称的です。子どもや外国人に日本語を教える場面を想像してみましょう。「教える」と「学ぶ」という役回りは、入れ替えられません。それに対して前者の関係は対称的です。友人どうしの日常的な会話を思い浮かべてみましょう。「語る」と「聞く」という役回りは交換可能です。現実にも、その都度の状況や事情に応じて、役回りは目まぐるしく入れ替わります。それが可能なのは、日本語や社会規範、常識、暗黙の了解といった規則・コードを双方がすでに習得し、共有しているからです。それらはいずれも「教える―学ぶ」というプロセスを経て習得されたものです。
 ほとんどの言語論は、「語る-聞く」という対称的な関係に準拠しています。それに反して柄谷はここで、ウィトゲンシュタインとともに、言語ゲームにおいては「教える―学ぶ」という非対称的な関係が原初的であるという見立てを示すのです。
 相手がどんな言語ゲームに参加しているのか、それはゲームの進行とともに、事後的に明らかになります。それに応じて言語ゲームとしての「対話」には、先を見通せない危うさ、やってみるほかないという冒険的要素がつきまといます。相手が自分と異なる言語ゲームに属する場合、「教える―学ぶ」というプロセスを経て、共通の規則をゼロから確立する必要があるでしょう。すれ違いや無理解も避けられないでしょう。衝突や闘争が生じて、互いを問いただすこともあるでしょう。その結果、自他の見解や立場を修正する、変更するということも起こるでしょう。他者は「教える―学ぶ」という非対称的な関係において、「対話」という言語ゲームを通して出会われるのです13
 逆にいえば、これらの摩擦や抗争を欠くとき、その対話はもっぱら同質的な者たち、つまり「われわれ」のあいだで進められているといえます。それが「自己対話」ないし「ひとり語り」としてのモノローグです。これを「対話」と呼ぶことはできません。第3回で確認しておいたように、会話が相手と自分の「同」を前提に進められるのに対して、対話は「異」を基本原理とするからです。「対話」は他者、すなわち言語ゲームを共有しない者とのあいだに成立するのです。
 相手の他者性が捨象されると、対話は自己対話(内省)へ変質します。にもかかわらず、それが「他者との対話」と誤認されるという倒錯した事態が生じます。第 3 回で言及した「自己との対話」には、このような問題が潜んでいるのです。真に自分自身との「対話」を試みるならば、自己を異質な他者と捉えるというように、なんらかの仕方で「他」の視点を介在させる必要があります。また「死者との対話」や「自然との対話」が不用意に口にされるとき、往々にして「死者」や「自然」の他者性が注意深く受けとめられず、「自己」の枠組みのうちに回収されています。「自己対話」ないし「ひとり語り」としてのモノローグであるにもかかわらず、それが他者との「対話」(ダイアローグ)であるかのように錯覚されているのです。

13 同書、167頁。

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