「対話的探究への招待――哲学すること、対話すること」第1部 哲学と対話

 生半可に見て、思索に耽るのでなく、よく見て、きちんと観察すればわかるように、すべてのゲームに共通する要素をみつけるなどできません。多種多様なゲームは、互いに重なりあう関係にあり、そこには複数の血縁関係や類似性が認められます。たとえば家族のメンバーのあいだに、体格や顔つき、眼の色、歩き方、気質などの部分的かつ複合的な重なり合い、つまり「家族的類似性」(Familienähnlichkeit)が見られるように8。粘り強く作業を続ければ、多種多様なゲームをいくつかのバリエーションないし系統に分類することができるかもしれません。
 日常言語についても、ゲームと同じことがいえます。いや、むしろ言語活動そのものをゲームと捉えることができます。「言語ゲームは、ここでは――類似性と非類似性を通して私たちの言語のありように光を投げかけるべき――比較の対象としてある」のです9
 現実の言語は多種多様であって、一つの体系(システム)に回収されませんし、特定の原理によって基礎づけられません。したがって、はたして相手が自分と同じゲームに参加しているのか、相手がどんなゲームに参加しているのか、それは実際にゲームを進めるなかで、初めて明らかになります。ゲームに参加しながら、よく観察するのです。要は、言語的コミュニケーションを実践するほかないのです。

言語ゲームとしての対話

 言語ゲームでは、理想から現実を裁断するという発想が手放されます。言語ゲームは、体系的に説明されることも、基礎づけられることもありません。言語ゲームの特徴を掴むには、実際にゲームに参加して、よく見るほかありません。先を見通せない危うさ、やってみるほかないという冒険的な側面があります。
 同様にポリフォニー小説では、本連載の第 7 回で確認した通り、小説の外部から理想や理念が持ちこまれることがありません。作者は予め考案したプロット――自らが描く理想的な筋立て――に従って、登場人物たちの発言やふるまいを規制するという特権を手放します。それに応じて登場人物たちは、それぞれの独立性を保持します。作者と登場人物は、作品の全体を俯瞰できないまま、各々の声を発し、相手の声を聴きあうのです。バフチンの言葉を改めて引いておきましょう。

 世界では最終的なことはまだなにひとつ起こっておらず、最後の言葉、世界についての最後の言葉は、いまだ語られていない。世界は開かれていて自由であり、一切はまだ前方にあり、かつまた常に前方にあるであろう。10

8 同書、57頁(第67節)
9 同書、93頁(第130節)
10 桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』岩波書店、2021 年、162頁。

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