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清々しき人々 第4回 津田塾大学を創設した女子教育の先駆者 津田梅子(1864-1929)

念願の女子大学を創設

 これほど優秀であったため、ブリンマー大学は在学することを期待しますが、日本女性の地位向上のための教育という長年の目的を実現するため、当初の予定より滞在を一年延期したものの一八九二年に帰国しました。ただし、その期間にも女性の留学のための奨学基金を設立するために尽力しています。帰国して華族女学校に復帰する以外に、九四年には明治女学院講師、九八年には東京女子高等師範学校(御茶ノ水女子大学)教授を併任します。

 シンクロニシティ(偶然の一致)という言葉がありますが、梅子が女性のための大学を創設しようとしていた時期に日本には同様の機運が醸成されていました。一八九〇年には前出の東京女子高等師範学校、一九〇〇年には東京女医学校(東京女子医科大学)、一九〇一年には日本女子大学校(日本女子大学)、一九一八年には東京女子大学、さらに一九一三年には東北帝国大学理科大学が女性の入学を認可するという具合です。

 このような時期に、梅子は官職を辞任し、父親や大山捨松、瓜生繁子、A・ベーコンなど、アメリカで友人関係となった人々の手助けもあり(図4)、一九〇〇年に「女子英学塾」を東京市麹町区一番町に和風の校舎を建設して開校し、塾長となります。最初の入学者数は一〇名で、東京以外にも横浜、広島、群馬、鹿児島からも入学してきました。一九〇三年には校舎を麹町区五番町に移設し、第一回卒業式が施行され、八名が卒業しました。

図4(左から)津田 ベーコン 瓜生 大山

 

 明治時代の女子の学校では行儀作法が重視される校風が大半でしたが、梅子のアメリカでの経験を反映して学問の習得が目標とされ、最初に入学した一〇名のうち八名しか卒業していないことが証明するように、きわめて厳格な教育を実施し、卒業するためには相当の努力が要求されました。この教育方針を徹底するためには運営資金などを外部に依存しないことが重視され、教師の確保や建物の建設費用の調達などの苦労は大変でした。

図5 新五千円札(2024年発行予定)

 

 それらの心労もあり梅子の体調が次第に不調になり、創立から約二〇年が経過した一九一九年に塾長を退任し、鎌倉に隠居して闘病生活をします。しかし残念ながら六四歳になった二九年に生涯独身の人生を終了しました。それ以前の二三年の関東大震災で麹町区五番町の校舎は全焼し、偶然にも前年に土地を取得していた北多摩郡小平村(小平市)に移設し、梅子の死後、名称を「津田英学塾」とし、梅子の墓所も学内に設置されました。  昨年四月に津田梅子にとって吉報が発表されました。二〇二四年度に紙幣のデザインが変更され、一万円札は福沢諭吉から澁澤栄一、千円札は野口英世から北里柴三郎、五千円札は樋口一葉から津田梅子に変更されることになったのです。明治時代の壹圓札には神功皇后の肖像が使用されていますが、それ以後は二〇〇四年に発行された五千円札の樋口一葉に続いて女性として三人目の栄誉で、生誕一六〇年の記念すべき年の発行になります(図5)。

つきお よしお 1942年名古屋生まれ。1965年東京大学部工学部卒業。工学博士。名古屋大学教授、東京大学教授などを経て東京大学名誉教授。2002、03年総務省総務審議官。これまでコンピュータ・グラフィックス、人工知能、仮想現実、メディア政策などを研究。全国各地でカヌーとクロスカントリーをしながら、知床半島塾、羊蹄山麓塾、釧路湿原塾、白馬仰山塾、宮川清流塾、瀬戸内海塾などを主催し、地域の有志とともに環境保護や地域計画に取り組む。主要著書に『日本 百年の転換戦略』(講談社)、『縮小文明の展望』(東京大学出版会)、『地球共生』(講談社)、『地球の救い方』、『水の話』(遊行社)、『100年先を読む』(モラロジー研究所)、『先住民族の叡智』(遊行社)、『誰も言わなかった!本当は怖いビッグデータとサイバー戦争のカラクリ』(アスコム)、『日本が世界地図から消滅しないための戦略』(致知出版社)、『幸福実感社会への転進』(モラロジー研究所)、『転換日本 地域創成の展望』(東京大学出版会)など。最新刊は『凛々たる人生』(遊行社)。

(月刊MORGEN archive)

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