佐藤 敏郎さん(小さな命の意味を考える会代表、スマートサプライビジョン理事・特別講師)

その後、教職を辞し様々の活動を

 女川第一中学校に赴任する前の教育委員会にいた頃から、「学校は学校以外のものと繋がった方がもっと学びは豊かになる」とずっと考えていたんです。そんな思いから女川中学校では町民とも積極的に交流しました。震災後、その思いはより強まって。学校と社会の間に入るのは教育委員会で経験していたし、そこをもっと自分なりにやろうと学校を飛び出しました。

 NPOカタリバは10年前、何か子どもたちのためにお手伝いすることはありませんかと、壊滅した女川にやってきて「向学館」という子どもの居場所を作ってくれました。私は学校側の立場でその立ち上げに関わりましたが、今はカタリバの一員になりました。そんなことを始めてかれこれ6年になりますね。

コロナ禍ではどんな活動を

 昨年、全国一斉に学校が休みになったでしょう。東日本大震災では、被災地での子どもたちの居場所がなくなりましたが、それが今度は全国で起ったかたちです。カタリバは今回も居場所をつくりました。それが「カタリバオンライン」です。

 全国各地から子ども達が集まって遊んだり、学習したりするオンラインの居場所が始まりました。一斉休校になって3日後のことです。すぐに全国からアクセスがあり、一番多いときで千人以上が登録していました。海外からの参加もありました。

 その後、学校が再開し、登録者は減ったけど、カタリバオンラインは続いています。緊急の居場所ではなく、色んなシステムも整備しました。その経緯の中で「校長先生が必要だ」ということになり、最年長の私に打診がありました。でも、ここは学校じゃないんですよね。だから「やや校長」にしてもらいました。カタリバの名刺の肩書きにも「やや校長」と書いてあります(笑)。教科学習だけではなく、音楽やゲーム、話合い等、オンラインでもいろんなことができて楽しんでいます。

 それから、学校に行っていない子どもたちが参加するようになりました。学校に行かない理由は様々です。一人ひとりに合った活用ができるよう、保護者と子どもそれぞれにメンターがついて伴走する取組みも行っています。「不登校」の問題では多くの学校も悩んでいますが、学校との連携も模索しています。まさに学校と学校外をつなぐことが求められるんだと思います。   

伝承活動をする佐藤さん

今後の活動目標は

 「やや校長」としての活動も、どんな展開になるのか楽しみですが、震災の体験を学びに変えていきたいです。あれだけのことがあったわけで、無駄にしたくない。無駄にしないってどうすることなんだろう、という想いが私を10年間突き動かしてきました。

 あの日、子どもだった若者達が様々な取組みをしています。語り部活動だけではなく、防災士になったり、大学で災害の研究をしたり、次世代に伝えようと紙芝居や絵本などを作ったり、映画を撮ったり・・・。彼らの活動は悩み迷いながらも、実に柔軟でしなやかです。そのサポートをしたいと考えています。なんか逆に若者に支えてもらっている気もしますが(笑)。きっかけというか、フィールドみたいなものをもう少し作れたら、彼らの活動は更に充実したものになるはずです。

 学校は辞めたけど、今も教員を続けている感覚でいます。これからも自分にしかできないかたちで社会に関わっていきたいと思います。

さとう としろう 1963年、宮城県石巻市生まれ。宮城教育大学卒業後、中学校の国語科教諭として宮城県内の中学校に勤務(2002年から3年間は女川町生涯学習課勤務)。2015年3月退職。東日本大震災当時は、宮城県女川第一中学校(現在の女川中学校)に勤務。震災後の2011年5月、生徒たちの想いを五七五に込める俳句づくりの授業を行い、テレビ、新聞、書籍等で紹介される。2016年度の中学校1年生の教科書にも掲載されることになった。震災後は女川中学校、矢本第二中学校で防災担当主幹教諭、宮城県の防災教育副読本の編集委員も歴任。震災で当時大川小学校6年の次女を亡くす。2013年末に「小さな命の意味を考える会」を立ち上げ、現在は、全国の学校、地方自治体、企業、団体等で講演活動を行う。2015年からは、震災当時小学生だった高校生が若者とディカッションを行う企画「あの日を語ろう、未来を語ろう」を各地で展開。2016年「16歳の語り部」(ポプラ社)を刊行、「平成29年度児童福祉文化賞推薦作品」を受賞。小さな命の意味を考える会代表、NPOカタリバアドバイザーの他、ラジオのパーソナリティーとしても活動。

(MORGEN 2021 1201)

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