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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第13回 天平時代の社会改革に活躍した僧侶 行基(668-749)

一五ケ所に建造した溜池

 ここで行基集団が実施した事業をいくつか紹介します。大阪市の東側に隣接する大阪狭山市の中心に面積四〇ヘクタールにもなる広大な狭山池という溜池があります(図2)。一帯の河内平野は水利の不便な地域で古代から多数の溜池が造成されていますが、狭山池はダムを建設して実現した溜池としては日本最古で、二〇一四年には国指定重要文化財に指定されています。行基集団は一五の溜池を実現していますが、その代表です。

図2 狭山池

 河内平野に溜池が造成されたことは古代の史書に記録されていますが、『古事記』には第一一代垂仁天皇の時代に狭山池が実現したと記録され、『続日本紀』には七三二年に工事をしたことや七六二年に決壊した狭山池を修造したという文章がありますし、行基の活動を記録した『行基年譜』には七三一年に「狭山池院」と「狭山池尼院」を起工したという記録があるので、工事に参加する信者を現地で教育していたことも推察できます。

 行基集団が建造した狭山池よりも一回り広大な四六ヘクタールの面積がある溜池が岸和田市にある久米田池です(図3)。周囲には最高で堤高が九メートルにもなる盛土の堤防が構築されています。地図によると周辺には多数の溜池が存在しており、用水の確保に苦労してきた地域ということが理解できます。しかし、二〇〇メートルほど東側に水量が豊富な牛滝川が流下しており、その上流から取水して用水を確保してきました。

図3 久米田池

淀川流域の広大な沼地を干拓

 行基は河川改修にも挑戦しています。最大の挑戦が淀川の改修でした。かつて淀川の上流には巨椋池という広大な湖水がありました。北西から桂川、北東から宇治川、東側から木津川が流入し、面積は八平方キロメートル、富士山麓にある河口湖より一回り広大な湖沼でした。残念ながら一九三〇年代に干拓され、現在では消滅してしまいましたが、この湖水の効果で行基の時代には淀川の氾濫は頻発せず、流域の開拓が課題でした。

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