清々しき人々 第2回 世界に先駆けて大空を目指した 浮田幸吉(1757-1847)と二宮忠八(1866-1936)

飛翔に挑戦した人々

 地面を徒歩で移動するしか能力のなかった人間は空中を自由に飛翔する鳥類を観察して飛翔能力を手中にしたいと願望してきました。それを象徴するギリシャ神話がダイダロスとイカロスの物語です。天才技師であったダイダロスは息子イカロスの飛翔したいという願望の実現のため、人工の羽根をイカロスの両肩に接着しますが、空高く上昇したため太陽の高熱で接着が脆弱になって羽根が落下し、墜落して死亡するという物語です(図1)。

図1 ダイダロスとイカロス

 

 それ以後、飛行機械を検討したのはL・ダ・ヴィンチで、一六世紀初頭に鳥類の飛翔を分析した『鳥の飛翔についての手稿』を発表しています。実際に実験をしたのは一九世紀のドイツの技師O・リリエンタールで、鳥類の羽根を真似た装置を製作して、自分で二〇〇〇回以上も実験しましたが(図2)、一八九六年に一五メートルの高度から墜落して死亡しました。これはグライダーですが、動力を装備した飛行機械の出現は二〇世紀になります。

図2 実験をするリリエンタール(1895)

 

 一九〇三年一二月一七日、アメリカのウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトの兄弟が一二馬力のエンジンを搭載した二七四キログラムの機体「ライトフライヤー」を五九秒で約二六〇メートル飛行させたというのが世界最初の飛行とされています。ところが日本でリリエンタールの最初の飛行より一一一年前にグライダーを飛行させ、ライト兄弟より一二年前に模型飛行機を飛行させた日本人がいました。その二人を今回は紹介します。

グライダーを実現した職人

 江戸時代中期の備前国児島郡(岡山県玉野市)八浜という港町に浮田幸吉という職人がいました。稼業は旅館でしたが幸吉が七歳のとき父親が死亡し、親戚の傘屋で仕事をしますが、一五歳になったとき、実弟の弥作が生活している岡山城下に移動します。時間のあるときに寺院の境内にいるハトの行動を観察し、その羽根を拡大した約二メートルの人工の羽根を製作し、それを両腕に取付けて屋根から飛び降り、二〇メートルほどの滑空に成功します。

 この程度では満足しない幸吉は二九歳になった一七八五年夏に大空を滑空するトビの羽根を真似した大型の羽根を製作して両腕に取付け、城下の旭川の京橋の欄干から河原に飛翔します。これにより「鳥人幸吉」として有名になりますが、騒動の原因となったとして入牢の処分になります。しかし、備前藩主池田治政が興味をもったため、所払いに減刑されて駿府(静岡)に移住し、郷里の木綿の売買で成功し、有名な商店を経営するようになります。

 商売は順調でしたが大空を飛翔する欲求は増大し、岡山城下での飛行から二〇年後、飛行機凧で駿府の天守の上空を飛行してしまいました。今度は他藩の間者の疑義もあり、長期に入牢することになりますが、やがて所払いとなり、駿府から西方の見附に移転して一八四七年に九〇歳で死亡しています。西欧ではイギリスのG・ケリーが一八四九年頃にグライダーを飛行させたと記録されていますので、それより六〇年以上前の快挙になります。

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