清々しき人々 第3回 火星の観測に熱中した富豪 P・ローウェル(1855-1916)

「宇宙戦争」の衝撃

 日曜であった一九三八年一〇月三〇日午後八時から開始されたアメリカのCBS放送のラジオ番組「マーキュリー放送劇場」が突然中断されて臨時ニュースとなり、火星の知的生物が地球を襲撃してきたという緊迫した内容が放送され、アメリカ各地でパニックが発生しました。これは番組の制作を担当していた奇才の映画監督O・ウェルズがSF小説の元祖ともされるH・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』(一八九八)を脚色した内容でした。

 火星表面に探査装置が着陸して映像を送信してくる現在では発生しえない事件ですが、一九世紀後半にはイタリアのG・V・スキアパレッリ、フランスのN・C・フラマリオンなど著名な天文学者が火星表面に人工の運河を想像させるような模様があることを発表し、知的生命の存在についての賛否が騒々しくなっていました。そのような時期に専門の天文学者ではないものの、敢然と火星に挑戦した富豪パーシヴァル・ローウェルを紹介します。

日本を五回訪問したアメリカ人

 イギリスでの新教への弾圧から逃避するため、一六二〇年冬に帆船メイフラワーで北米大陸に逃避してきたピルグリム・ファーザーズはアメリカ建国に貢献していますが、それから十数年後の一六三九年に渡米してきたのがローウェルの祖先です。以後、紡績をはじめ様々な事業を経営、ボストンを本拠とするアメリカ有数の富豪となります。今回紹介するローウェルの時代には学者も輩出し、弟はハーバード大学の学長、妹は有名な詩人でした。

 ローウェルも一八七二年にハーバード大学に入学し、理系と文系の両方を専攻しますが、いずれの分野でも優秀な成績で卒業しています。しばらくヨーロッパ旅行をしてから、一族の事業の経営に尽力しますが、ある契機から日本に注目します。一族のジョン・ローウェルの遺産で創設した「ローウェル協会」が東京大学の教授として日本に滞在し、大森貝塚を発見して有名なE・モースに日本についての連続公演を依頼したのです。

 モースの講演は日本の国土から、言語、風俗、芸術、産業など広範な分野について紹介しており、その影響でローウェルは二八歳になった一八八三年から九三年まで日本を五回訪問し、足掛け三年滞在しています。しかし、モースの詳細な講演を聴講していたはずですが、ローウェルは著書に「日本の人々の両眼はネコのように吊上がっており、それが西洋の人々の精神とは異質であることの証拠である」という理解しがたい見解も記載しています。

 その一方、日本で魅入られた地域もありました。一八八九年に来日したとき、日本地図に奇妙な形状の半島を発見し旅行を企画します。能登半島でした。前年に直江津まで開通したばかりの信越本線で上野から終点の直江津へ到着、人力車で高岡を経由して氷見へ到達し、越中と能登を連絡する重要な道路、現在の県道一八号線を徒歩で進行し、県境の標高三八七メートルの荒山峠に到着します。ここは能登半島が一望できる絶好の地点でした。

 そこには一八八九年にローウェルが通過したという看板があり、帰国してから出版した『能登・未踏の日本の辺境』の文章「二軒の茶屋があり、茶屋の内儀は愛想がよく繁盛していた」が紹介されています(図1)。能登に到着してからは人力車で和倉温泉に到着、翌日、二〇トンほどの汽船で七尾湾内を穴水まで航行、旅券の期限もあったため折返して能登街道を進行し、後半は立山温泉宿泊や天竜川下りなどをして一九日間の旅行を終了しています。

図1 荒山峠の掲示板

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