清々しき人々 第10回 最初にチベットに到達した日本人 河口慧海

チベットの複雑な歴史

 世界の屋根ヒマラヤ山脈の南側斜面にはネパール、ブータンが存在し、一九七五年まではシッキムも存在していました。一方、北側には面積が日本の六倍もあり標高の平均が四五〇〇メートルにもなるチベット高原が展開しています(図1)。一帯の年平均降雨量は約四〇〇ミリメートルという乾燥地帯で旅行が難渋するため、七世紀に玄奘三蔵が仏教原典の入手のためインドを目指した旅行ではチベット高原を回避して移動しています。

図1 チベット高原

 このチベット高原は七世紀から九世紀までは仏教を国教とする吐蕃王朝が支配して、立派な寺院が数多く建立され、仏教経典のサンスクリット原本から翻訳した大量のチベット仏教仏典も制作されました。一三世紀になるとモンゴル帝国の侵攻があるなど栄枯盛衰がありましたが、一七世紀になって、如来や菩薩などの化身として登場したとされるダライ・ラマを信仰する政権が登場し、チベット高原の大半を支配するようになります。

 しかし一七世紀に成立した清朝はダライ・ラマ政権の内紛を契機にチベットを支配しはじめますが、二〇世紀初頭に清朝が崩壊すると、再度、ダライ・ラマ政権が復活します。しかし一九四九年に成立した中国人民共和国はチベットへ侵攻を開始し、一九五九年にダライ・ラマ一四世は亡命してインドに亡命政府を樹立することになります(図2)。このような歴史のあるチベットに、明治時代、単身で探検に出向いた河口慧海を紹介します。

図2 ダライ ラマ

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