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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第32回 自由に活動した天才 大野弁吉(1801−1870)

独自に発達した江戸時代の科学技術

 徳川幕府による鎖国政策のため、西欧の情報の大半は長崎の出島を経由する内容に限定されていました。そのため国内で独自の科学や技術が発展し、和算家関考和はI・ニュートンやG・ライプニッツが微積分学を発表した一七世紀後半の同一の時期に微分積分の概念に到達していますし、伊能忠敬も独自の測量技術で精密な日本地図を作成、幕末に到来したイギリスの技師が再度測量する必要がないと判断したほどの精度でした。

 一般には有名ではありませんが、大坂で医師をしていた麻田剛立は独自の天体観測の知識で一七六三(宝暦一三)年の日蝕を予言していますし、ケプラーの発表からは一六〇年近く出遅れていますが、地動説を発表しています。技術の分野では歩数で距離を測定する装置や二点の高低の差異を測定する装置を開発した平賀源内のような人物も出現しています。大半は武士階級の出身ですが、庶民で様々な発明をした人物がいます。

長崎で先端技術を吸収

 一八〇一(享和元)年に京都五条の羽根細工を仕事とする職人の家庭に誕生したと伝承されている中村(大野)弁吉が今回の主役です。当時はごく普通であった貧乏人子沢山を象徴するような家庭であったようで、幼少のときに比叡山延暦寺の寺侍であった叔父の佐々木右門の養子となります。この時期の様子は不明ですが、養子というのは名目で僧坊の下働きとして雇用されていたのではないかという推測もあります。

 さらに弁吉はすでに幼少の時期から絵画などにも非凡な才能を発揮していたという伝承もあります。ところが二〇歳になったときに、それまでの下働きの生活から突如脱出を決意し、下山して長崎に出奔してしまいました。当時の長崎にはオランダから出島に到来していた人々が様々な西欧の最新の知識を伝達しており、弁吉の旺盛な好奇の気持ちが大胆な行動を後押ししたのではないかと推測されています。

 長崎では陶磁器商の伊万里屋に寄宿していたとされ、荷役などの雑役や、オランダ人宅で下働きなどをしながら、当時の先端の知識を吸収していたようです。この荷役人夫をしていた時期ではないかと推測されますが、対馬を経由して朝鮮にも渡航しています。帰国してからは紀州に移動し、砲術、算数、暦学などを勉強し、誕生した京都に帰還しました。そこで中村屋八右衛門の長女ウタと結婚して婿入りし中村屋弁吉となります。

 結婚してから三年が経過した一八三一(天保二)年になって二人は北陸の金沢郊外の大野に移住します。弁吉は三一歳、ウタは一八歳でした。文化の中心である京都から加賀百万石とはいえ金沢という地方都市の郊外に移住した理由は大野がウタの生誕の場所であるとか、長崎に滞在していたときに金沢の豪商である銭屋五兵衛の外国貿易の通訳をした関係であるなど諸説がありますが、明確ではありません。

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