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清々しき人々 第10回 最初にチベットに到達した日本人 河口慧海(1866-1945)

 その結果、法王の侍医になることを打診されたり、政府高官の家族を治療して懇意になったりして、あまりにもラサで有名になってきたため、すでに慧海の素性が市内で噂話になりはじめてきました。そこで急遽ラサからの脱出を決意します。収集した仏典を別送する手配をしてから、一九〇二年五月にインドへの脱出を敢行します。脱出の経路はブータン経由の間道、ネパール経由の間道もありましたが、あえて五重の関所のある公道を選択しました。

 関所の通過には通常一週間近くの日数が必要でしたが、それでは追手が到着してしまうので芝居が必要でした。そこで慧海は関所の役人に「自分は法王の秘密の指令でカルカッタを目指している。関所で時間がかかるのは仕方がないが、時間がかかる理由を文書にしてほしい」と要求したところ、役人は早々に厄払いをしたいと通過させてくれました。このような大胆な手口で無事にカルカッタに到着しました(図5)。

図5 チベット脱出直後の河口慧海

 ところがインドに到着直後、チベットから帰国した商人がラサでは慧海と交際していた人々が次々に投獄されていると伝達します。そこで慧海はネパールに出掛け、ネパール国王からダライ・ラマ一三世に寛大な処置を要請する親書の送付を依頼します。これにより問題が解決しただけではなく、ネパールから大量の経典を贈呈されました。このような問題はあったものの、慧海は出発から六年が経過した一九〇三年五月に神戸に帰還しました。

世界が注目していた中央アジア

 帰国した慧海はチベットでの経験を新聞に発表したところ、大変な話題になりますが、現在のように世界の情報が簡単に入手できる時代ではなかったため、半信半疑という社会の反応もありました。西欧社会でも中央アジアは未知の地域でしたから、開国して三〇年余という日本では当然の反応でした。そこで翌年、探検の内容を『西蔵旅行記』として出版します。これは五年後にロンドンで『チベットでの三年』という題名で英訳されています。

 当時、西欧の人間で中央アジア一帯を探検したのはスウェーデンの地理学者スヴェン・ヘディンでした。一八九三年から九七年にかけてロシアのウラル山脈からタクラマカン砂漠を横断して北京に到着、九九年から一九〇二年にかけてはチベット高原の北部を探検して古代都市楼蘭の遺跡を発見、さらに〇五年にはチベット高原の中央部分を探検などして、チベット仏教の第二の地位にあるパンチェン・ラマにも面会しています。

 この時期に同一の地域を探検したのが浄土真宗本願寺派の第二二代法主大谷光瑞が主導した大谷探検隊です(図6)。一九〇二年の光瑞を隊長とする第一次探検隊から一〇年の第三回探検隊まで足掛け一二年間にチベット高原の北側のタクラマカン砂漠を中心に探検し、数多くの遺跡の発見と文書の収集をしています。ヘディンは西欧にとって未開の土地の探検が目的でしたが、日本の探検は慧海も光瑞も仏教の原典を探索することでした。

図6 大谷光瑞(1876-1948)

河口慧海の探検の目的

 帰国した翌年、短期でインドを訪問、一九一三年にはチベットを再訪して一五年まで滞在しますが、それ以外は仏教についての研究と著述に没頭します。また在俗の生活のまま仏道に帰依する在家仏教を推奨し、二一年には自身の僧籍も返上しています。さらに仏教関係のいくつかの大学が合併して二六年に設立された大正大学の教授としてチベットの研究を継続し、晩年は『蔵和辞典』の編集に没頭し、戦争末期の四五年二月の東京で逝去しました。

 慧海が大谷探検隊のような強力な組織の支援もなく入国の危険のあるチベットへ無謀ともいえる単独潜入した理由は『西蔵旅行記』の冒頭に記載してありますが、本物の仏典から仏教の本義を理解したいということでした。そのためには中国で漢語に翻訳されて日本に伝来してきた仏典ではなく、仏陀の本来の思想が記載されている梵語(サンスクリット)の原典かチベット語訳の仏典を入手することが必要であるという確固たる信念でした。  冒頭にも簡単に説明しましたが、第二次世界大戦後、中国がチベットに侵攻し、一九五九年にダライ・ラマ一四世がインドに亡命政府を樹立した結果、六六年に中国は西藏自治区を発足させ、ウイグルと類似の少数民族の言語や宗教など文化の破壊を進行させてきましたし、大陸間弾道弾発射基地や放射性廃棄物投棄場所も設置しています。慧海の情熱を想起し、世界で第四の宗教人口をもつ仏教の原典を継承してきたチベットに関心をもつ時期です。

つきお よしお 1942年名古屋生まれ。1965年東京大学部工学部卒業。工学博士。名古屋大学教授、東京大学教授などを経て東京大学名誉教授。2002、03年総務省総務審議官。これまでコンピュータ・グラフィックス、人工知能、仮想現実、メディア政策などを研究。全国各地でカヌーとクロスカントリーをしながら、知床半島塾、羊蹄山麓塾、釧路湿原塾、白馬仰山塾、宮川清流塾、瀬戸内海塾などを主催し、地域の有志とともに環境保護や地域計画に取り組む。主要著書に『日本 百年の転換戦略』(講談社)、『縮小文明の展望』(東京大学出版会)、『地球共生』(講談社)、『地球の救い方』、『水の話』(遊行社)、『100年先を読む』(モラロジー研究所)、『先住民族の叡智』(遊行社)、『誰も言わなかった!本当は怖いビッグデータとサイバー戦争のカラクリ』(アスコム)、『日本が世界地図から消滅しないための戦略』(致知出版社)、『幸福実感社会への転進』(モラロジー研究所)、『転換日本 地域創成の展望』(東京大学出版会)など。最新刊は『凛々たる人生』(遊行社)。

(月刊MORGEN archives2021)

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