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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第11回 波乱万丈の人生を超越した俳人 小林一茶(1763-1828)

全国でも著名な俳人となる

 六年の行脚から江戸へ帰還した翌年の一七九九年、江戸で世話になった大川立砂が急死してしまいます。そのような時期に今度は柏原の父親が病気になったという情報があり、一八〇一年三月に帰郷しますが、六月に父親は死亡してしまいます。その間際に一茶と仙六に財産を二分するように伝達しますが、仙六と母親は一茶が不在の二四年間に石高を三倍にも増加させていましたから、二人には納得できる内容ではなく、争議の原因になりました。

 しかし、父親が死亡した時期には、江戸で一流の俳人になりたいという野心があり、帰郷する気持ちはありませんでした。実際、一茶は『万葉集』『古今和歌集』などの歌集、『古事記』『続日本紀』などの史書、『源氏物語』『土佐日記』などの文学、さらには中国の『詩経』『易経』などの古典を熱心に勉強するとともに、優秀な俳人との交流を句作に反映させ、「一茶調」という独自の俳風を創造していきます。この勉強熱心は生涯継続しています。

 その結果、一茶は有名な俳人になっていきます。江戸時代には様々な分野で大相撲番付表のような順位が発表されており、一八一一年の「正風俳諧名家角力組」という番付で、一茶は江戸の俳人として東方の前頭五枚目に記載されています。全国で一七六名が掲載されているうちの東方の八位ですから相当の評価でした。ただし、上位の俳人は多数の弟子もいて生活に苦労することはありませんが、一茶はそうでもありませんでした。

 そのような経済事情と次第に進行する老化の影響で一茶は帰郷を検討するようになります。一八〇七年に父親の七回忌の法要のために帰郷したとき、父親の死亡の間際の遺言を根拠に継母や仙六と財産分与の相談をしますが、三〇年間も故郷を留守にしたまま、母子が苦労して拡大してきた財産の分与という要求は故郷の村人からも非難されます。

   人誹る 会が立つなり 冬籠

結果として最終決着には六年の歳月が必要でした。

 財産が分与されても農業で生活を維持するには高齢になりすぎているため、一茶は生活の基盤となる俳諧結社を設立し、師匠となる段取りを開始します。その時期には、信濃でも俳句が隆盛になっており、すでに何社かが存在していましたが、一茶は各地の俳句を愛好する人々と出会い一茶社中を結成します。前述の番付でも想像できるように、すでに一茶は日本を代表する俳人と評価されており、各地から人々が訪問してくるほど繁盛しました。

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