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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第11回 波乱万丈の人生を超越した俳人 小林一茶(1763-1828)

柏原に帰郷し三度の結婚をする

 遺産相続問題も解決し、俳諧結社も順調に進展したことも影響し、一茶は五二歳になった一八一四年に野尻宿の有力な農家の菊という二八歳の女性と結婚します。三男一女が誕生しますが、すべて夭折してしまいます。

   露の世は 露の世ながら さりながら

さらに二〇年には本人も雪道で転倒して中風となり、歩行も困難になりますし、菊も痛風となって二三年に三七歳で死亡してしまいます。九年の結婚生活でした。

   小言いう 相手もあらば けふの月

 すでに一茶は六〇歳になっていましたが再婚を希望し、飯山藩士の田中義条の三八歳の娘で離婚して出戻っていた雪と結婚します。しかし、俳人として有名になっていた一茶は北信一帯の門人を訪問して自宅を留守にしがちであったため、数ヶ月後には離婚ということになります。

   淋しさに 飯をくふ也 秋の風

ところが、ある事情から三度目の結婚をすることになります。柏原の旅館に奉公していた「やを」という女性に私生児が誕生して問題となり、その解決として身寄りのない一茶と結婚することになったのです。

図2 一茶終焉の土蔵

 伴侶と跡継ぎができた六五歳の一茶にも平穏な晩年が到来したようでしたが、さらなる災難が襲来します。一八二七年初夏に柏原の集落の八割が焼滅する大火が発生したのです。幸運にも一茶の所有する土蔵は無事で、そこに仮住まいをします(図2)。中風で歩行も困難でしたが、一茶は各地の門人を訪問し、初冬に柏原に帰還しますが、一一日後に死亡しました。六五歳でした。遺骨は宿場にある菩提寺の明専寺の墓地に埋葬されました(図3)。

図3 小林家墓(名専寺)

 急死であり、辞世の俳句もありませんでしたが、意外な遺産がありました。「やを」が身籠っており、翌年四月に女児「やた」が誕生したのです。成長した「やた」は越後高田の農家の丸山卯吉を入婿とし、一茶が念願した一家の存続は達成されました。江戸の三大俳人の芭蕉は生涯に九六七句、蕪村は二九一八句を記録していますが、一茶は二万一二〇〇句という桁違いの句数を記録しています。人生でも句作でも多産の巨匠でした。

つきお よしお 1942年名古屋生まれ。1965年東京大学部工学部卒業。工学博士。名古屋大学教授、東京大学教授などを経て東京大学名誉教授。2002、03年総務省総務審議官。これまでコンピュータ・グラフィックス、人工知能、仮想現実、メディア政策などを研究。全国各地でカヌーとクロスカントリーをしながら、知床半島塾、羊蹄山麓塾、釧路湿原塾、白馬仰山塾、宮川清流塾、瀬戸内海塾などを主催し、地域の有志とともに環境保護や地域計画に取り組む。主要著書に『日本 百年の転換戦略』(講談社)、『縮小文明の展望』(東京大学出版会)、『地球共生』(講談社)、『地球の救い方』、『水の話』(遊行社)、『100年先を読む』(モラロジー研究所)、『先住民族の叡智』(遊行社)、『誰も言わなかった!本当は怖いビッグデータとサイバー戦争のカラクリ』(アスコム)、『日本が世界地図から消滅しないための戦略』(致知出版社)、『幸福実感社会への転進』(モラロジー研究所)、『転換日本 地域創成の展望』(東京大学出版会)など。最新刊は『凛々たる人生』(遊行社)など。

(モルゲンWEB 2022 0110)

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