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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第12回 オリンピック大会で日本最初の女性メダリスト 人見絹枝(1907-1931) 

ヨーロッパの大会で活躍

 一九歳になった一九二六年に大阪毎日新聞社に入社しますが競技は継続し、次々と記録を更新していきます。そしてついに八月に世界に進出します。シベリア鉄道を利用して、車中で自炊しながら丸一ヶ月かけてスウェーデンの第二の都市ヨーテボリに到着、そこで開催された国際女子競技大会に単身参加したのです。初日には一〇〇ヤード競走で三位に入賞、円盤投げで二位に入賞します。円盤は現地で購入して数日練習しただけの成果でした。

 初日に二五〇メートル競走にも出場して疲労が蓄積していたため、翌日は得意の槍投げを棄権して走り幅跳びに集中する作戦を選択しました。決勝では五回の試技まではイギリスの選手が一位でした。人見は途中の試技で着地のときにスパイクで右手に怪我をしていましたが、最後の試技で五・五〇メートルという世界最高記録を達成して優勝し、総立ちで拍手喝采する観客の眼前で日の丸が掲揚され君が代が吹奏されました、

 最後の三日目には右手の怪我にもかかわらず六〇メートル競走で五位、立ち幅跳びで優勝しました。国別では二五人が参加して五〇点を獲得したイギリスが一位でしたが、人見一人で一五点を獲得した日本は五位になり、人見は個人優勝で金メダルを授与されました。すでに二〇世紀になっていたとはいえ、ヨーロッパの人々が想像する日本の女性は芸者という時代でしたが、人見は一人でイメージを変革したことになります。

次々と記録を更新

 この遠征で外国の練習の事情を見聞した人見は、帰国して日本男子で最初に一〇〇メートルを一〇秒台で走破した同郷の谷三三五に指導を依頼し記録を向上させていきます。しかし日本でも橋本静子や双子の寺尾姉妹(正と文)など女子の走者が次々と登場する時代になっており、一九二七年に開催された第四回日本女子オリンピック大会では、五〇メートル競走で同着ながら橋本静子が一位になり、ついに国内で最初の敗戦を経験します。

 それでも国内では断然の強者で、一九二八年の第五回日本女子オリンピック大会では一〇〇メートル競走と四〇〇メートル競走で世界最高記録で優勝、走り高跳と槍投げでも優勝します。さらに大阪で開催された第一五回全日本陸上競技選手権大会では一〇〇メートル競走と走り幅跳びで世界記録を更新して優勝という桁違いの実力を発揮しています。人見は正真正銘の女性ですが、世間では男性ではないかという評判があったほどです。

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