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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第12回 オリンピック大会で日本最初の女性メダリスト 人見絹枝(1907-1931) 

八〇〇メートル競争の死闘

 近代オリンピック大会を創設したクーベルタン男爵は女性の陸上競技への参加には反対でしたが、ついに一九二八年に開催された第九回アムステルダム大会で参加が承認され、人見は唯一の女子の日本代表として参加しました。陸上競技の一〇〇メートル競走、八〇〇メートル競走、円盤投げ、走高跳という個人で参加できるすべての種目に登録していましたが、一〇〇メートル競争で入賞したら、それ以外は棄権する予定でした。

 ところが予選では一位でしたが準決勝で四位になり、決勝に出場できなくなってしまいました。当時は参加することに意義があるという感覚の時代ではなく、国家の代表として面目なく帰国できないほどの衝撃でした。円盤投げは競技が終了しており、走り高跳びは苦手のため、競技の経験のない八〇〇メートル競走に挑戦する選択をします。予選は無事通過しましたが、翌日の決勝は自信がなく、睡眠できないほど緊張していました。

 九人の競走になりましたが、先頭の選手を追走し、最後の一〇〇メートルで先頭になる作戦でした。しかしトラックを一周した四〇〇メートルでは六位、六〇〇メートルで三位になり、最後の一〇〇メートルになったときに二位でした。しかし、その時点で人見の記憶は喪失していました。前夜の睡眠不足と一口のメロンだけという食事で体力の限界だったのです。しかし、一位のドイツのL・ラトケと二位の人見は世界記録でした(図4)。

図4 人見とラトケ

 人見は日本の陸上競技の女子で最初のメダリストになりますが、第二のメダリストは六四年後の一九九二年に開催された第二五回バルセロナ大会のマラソンで二位となった有森裕子まで登場しませんでした。いかに人見の活躍が素晴らしいことであったかが理解できます。しかし過酷な競技だということで、この大会を最後に女子の八〇〇メートル競走は中止となり、三二年後に開催された第一七回ローマ大会まで復活しませんでした。

完全燃焼した最期

 帰国してから一旦休養しますが、翌年から活動を再開し、後輩の育成にも努力します。一九三〇年九月にはプラハで開催された第三回国際女子競技大会に五人の後輩とともに参加、さらにワルシャワで開催されたポーランドとの対抗競技大会、ベルリンで開催されたドイツとイギリスとの対抗競技大会、ブリュッセルで開催されたベルギーとの対抗競技大会、パリで開催されたフランスとの対抗競技大会に次々と出場し、一一月に帰国しました。  短期に五回もの国際競技大会に出場し疲労困憊でしたが、帰国してから、応援してくれた団体などへの挨拶に忙殺された結果、強靭な肉体も対応できず、翌年三月に入院することになりました。しかし病状は悪化し、一九三一年八月二日に「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」の辞世の言葉とともに二四歳で死去しました。一九二八年のアムステルダム大会の八〇〇メートル決勝でラトケと死闘をした三年後の当日でした。

つきお よしお 1942年名古屋生まれ。1965年東京大学部工学部卒業。工学博士。名古屋大学教授、東京大学教授などを経て東京大学名誉教授。2002、03年総務省総務審議官。これまでコンピュータ・グラフィックス、人工知能、仮想現実、メディア政策などを研究。全国各地でカヌーとクロスカントリーをしながら、知床半島塾、羊蹄山麓塾、釧路湿原塾、白馬仰山塾、宮川清流塾、瀬戸内海塾などを主催し、地域の有志とともに環境保護や地域計画に取り組む。主要著書に『日本 百年の転換戦略』(講談社)、『縮小文明の展望』(東京大学出版会)、『地球共生』(講談社)、『地球の救い方』、『水の話』(遊行社)、『100年先を読む』(モラロジー研究所)、『先住民族の叡智』(遊行社)、『誰も言わなかった!本当は怖いビッグデータとサイバー戦争のカラクリ』(アスコム)、『日本が世界地図から消滅しないための戦略』(致知出版社)、『幸福実感社会への転進』(モラロジー研究所)、『転換日本 地域創成の展望』(東京大学出版会)など。最新刊は『凛々たる人生』(遊行社)など。

(モルゲンWEB202202) 

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