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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第24回 将軍徳川綱吉に二度拝謁した ケンペル(1651‐1716)

 ここに約二年半滞在、一六八八年六月に、当時の世界最大の貿易会社であるオランダ東インド会社の帆船でアジアを目指して出発します。それ以後、インドを経由して一六八九年にオランダ東インド会社のアジアの拠点であるバタヴィアに到着しました(図2)。しばらく滞在していた時期にバタヴィア総督J・カンプハイスから日本での勤務を打診されます。オランダ商人が日本で活動するようになって約二〇年が経過した時期でした。

図2 バタヴィア(17世紀)

長崎の出島に滞在

 こうしてケンペルは一六九〇年七月に日本を目指す帆船に乗船し、二度も台風に遭遇しながらも九月二四日に長崎の出島に到着しました(図3)。出発から八年が経過していました。幕府の役人が乗員名簿と来航した人間が同一かを審査、大砲などの武器は差押えるという措置をしてから上陸が許可されました。ケンペルは出島を「牢獄」と記録していますが、出入は厳重に管理され、活動も監視されるなど生活は制約されていました。

図3 出島

 ザビエルやフロイスが到来した一六世紀中頃は布教活動も自由でしたが、高山右近や大友宗麟などキリシタン大名が登場し、庶民にも信者が増加してくるような状況から、徳川幕府は一六一三年に禁教令を発令し、貿易を中心にする活動に制約し、それを徹底するために出島に外国人を隔離するようになったのです。この出島は長崎湾内に一六三六年に埋立で完成した四〇〇〇坪ほどの小島で、一本の橋梁で本土と接続されていました。

 そのように自由に行動できない状況から、時間に余裕ができたケンペルは日本の言葉を学習するようになり、活動も博物学者である基礎を背景にして日本の植物を採集して研究するようになります。これは結果として正解で、長崎奉行の一人などはケンペルの行動を評価するようにさえなっています。そうして日本に馴染んできた結果、当初は一年の滞在予定でしたが、二年に延長するよう申請し、許可されました。

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