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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第30回 日本の近代医学を開拓した 北里 柴三郎(1853−1931)

 この血清療法をジフテリアに応用し、その成果を一八九〇年の『ドイツ医学週報』に「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫について」という論文にし、同僚であるE・A・フォン・ベーリング(図4)と共著で発表しました。当時、ジフテリアは感染すると四〇%は死亡するという病気であったため大変な反響でした。しかし、一九〇一年の第一回ノーベル生理学・医学賞はベーリングの単独受賞になってしまいました。

図4 E.A.ベーリング(1854-1917)

 大変に残念な結果ですが、いくつかの背景がありました。第一にベーリングが『ドイツ医学週報』の次号に血清療法の詳細な結果を単独で発表したこと、ノーベル生理学・医学賞を選考したスウェーデンのカロリンスカ研究所が血清療法はベーリングが開発したもので、北里は実験結果を提供しただけであると判断したこと、さらに初期のノーベル賞は共同受賞の仕組みがなかったことなどが理由とされますが残念なことでした。

脚気の原因の論争で騒動

 一八九二年に帰国した北里は日本でも論争に関係することになります。当時、日本では軍隊で脚気が流行し、弾丸で死亡する兵士より脚気で死亡する兵士が多数であるという状態でした。日露戦争では陸軍で四万七〇〇〇人の兵士が死亡していますが、銃弾で死亡した兵士は一万九〇〇〇人である一方、脚気で死亡した兵士が二万八〇〇〇人という状況でした。ところが海軍では脚気によって死亡した兵士はきわめて少数でした。

 北里が留学している時期にオランダの学者が脚気の病原菌を発見したという論文を発表します。北里はコッホの指示で追試をしたところ、病原菌説は実験の不備によるもので、原因は栄養の偏りであることを明確にします。日本の陸軍と海軍の差異の原因も海軍の主食が麦飯であるのに陸軍は白米であることでした。しかし、その病原菌説を主張しているのは北里を留学させてくれた恩人の緒方であるため、発表を躊躇していました。

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