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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第34回 アイヌ民族の精神を体現した 知里幸恵(1903−1922)

日本の先住民族アイヌ

 世界の先住民族の大半が文字による記録のない文化を維持していたため、その歴史には不明な部分がありますが、アイヌ民族も同様でした。江戸時代以前には蝦夷地と名付けられていた北海道から樺太方面と千島列島方面の広大な地域に生活していましたが、明治時代になって日本政府は北方からの脅威に対抗する目的もあり、明治二(一八六九)年に蝦夷地を正式に日本の国土にし、名称も北海道としました。

 そして明治三二(一八九九)年に日本政府は「北海道旧土人保護法」という法律を制定します。アイヌ民族は広大な土地を利用して狩猟採集で生活していましたが、新規に本土から入植してくる人々は農業牧畜を生業にするため一定の土地を私有する必要がありました。その入植してくる人々が増加すると、土地問題が発生するようになり、アイヌの人々に土地を分譲し農業を生業にするように強制するのが法律の目的でした。

素晴らしい能力の才女

 このような時代の転換が開始した直後の明治三六(一九〇三)年に室蘭本線の登別駅と豊浦駅の中間にある場所で、土地の有力な家系の一員である知里高吉と金成ナミの長女として誕生したのが今回紹介する知里幸恵です。夫妻は子供時代から知合いの仲でした。しかし、明治二二(一八八九)年にアイヌ民族の生業であった原野での狩猟も河川での漁業も禁止され、必死で不慣れな農業をする生活に転向しました。

 そのため幸恵は祖母になるモナシノウクとともにアイヌ民族の伝統ある言葉、食事、衣類で生活することになりますが、これがアイヌ民族の精神を伝承する『アイヌ神謡集』の執筆の背景になります。しかし、幸恵が六歳になった明治四二(一九〇九)年に、母親の姉になる伯母の金成マツが聖公会伝道師として生活する旭川にモナシノウクとともに移住し、以後、登別に帰還することはありませんでした(図1)。

図1 知里幸恵と金成マツ

 マツが奉職する聖公会教会は旭川の中心から八キロメートル郊外にあるアイヌコタン(集落)にあり、翌年、幸恵は市内にある上川第三尋常小学校に入学しました。成績優秀のため、一九一六年には上川第三尋常高等小学校高等科、翌年には創設されたばかりの旭川区立女子職業学校に四番という素晴らしい成績で入学します。数学、図画、作文は一番、音楽も裁縫も優秀でしたが、いつも優秀なアイヌという評価に傷付いていました。

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