清々しき人々 第11回 波乱万丈の人生を超越した俳人 小林一茶

古代から存在した歌謡

 年代不詳ですが、日本最古の歌謡は素戔嗚尊による

   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

とされています。このような歌謡が古代の日本に広範に普及していたことは、八世紀後半に編纂された『万葉集』に、高貴な人々から一般の庶民まで多様な国民による七世紀前半からの四五〇〇以上の歌謡が収集されていることが証明しています。これらは中国伝来の「漢詩」に対比して「和歌」と命名されていました。

 七世紀から九世紀にかけて遣隋使や遣唐使が中国に派遣されていた時代は、上流社会では漢詩が流行していましたが、使節の派遣が中止となった一〇世紀以後になると和歌が復活します。それらは五音と七音を何度も繰返して最後に七音で終了する仕組みで、全体は「連歌」と名付けられていました。その最初の五音七音五音は「発句」とか「俳諧」という名前で独立するようになり、明治時代に正岡子規により「俳句」と命名されました。

 江戸時代になり「俳諧」が流行しはじめ、庶民の関心の対象になります。一七世紀中期の寛永・元禄時代には西山宗因や松尾芭蕉が、一八世紀後半の文化・文政時代には与謝蕪村や小林一茶が登場します。宗因の父親は加藤清正の家臣、芭蕉の父親は苗字帯刀を許可された土豪である一方、蕪村は母親が奉公した商家の主人の子供、一茶は信濃の農家の子供というように、江戸時代後半になって俳諧が上流社会から一般社会に浸透してきました。

北国街道の柏原に誕生

 今回は江戸時代後期に活躍した俳人小林一茶を紹介します。江戸幕府が整備した北国街道は信濃国追分宿で中山道と分離し、信濃国善光寺を経由して越後国高田城までを連絡する重要な街道ですが、善光寺から北側に二五キロメートルの越後との国境の手前に柏原宿(現在の長野県信濃町)があります。農村であるとともに、江戸と北陸を連絡する交通の要衛であり、物資の中継基地であるとともに江戸の文化も流入してきた土地でした。

図1 北信五岳

 標高約七〇〇メートルの高地にあり、東側の背後にはナウマンゾウの化石が出土したことで有名な野尻湖がある一方、西方には北信五岳(図1)のうち妙高戸隠連山国立公園に位置する妙高山(二四五四メートル)、黒姫山(二〇五三メートル)、飯綱山(一九一七米)の三山を眺望できる風光明媚な土地ですが、豪雪地帯でもあります。一茶の晩年の

   これがまあ ついの栖か 雪五尺

という俳句が地域の特徴を端的に表現しています。

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