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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第17回 近代の女子教育に尽力した 下田歌子(1854-1936)

自身で女子学校を創設

 帰国した歌子は明治二九(一八九六)年に二人の内親王教育掛に任命されますが、いくつかの面倒に巻込まれます。まず侍従長徳大寺実則が歌子は欧米視察の期間にキリスト教徒になったのではないかと疑惑をもちますが、これは否定されました。さらに修学年齢になった常宮の教育方針について宮内省内で意見の対立が発生したため、二年が経過した明治三一(一八九八)年に自身の教育理念を遂行するため「帝国婦人協会」を設立し会長に就任します。

 視察で実見した欧米の社会と比較して、当時の日本の社会では男女の格差がありすぎるため「日本が一流の大国となるためには大衆女子教育こそ必要」というのが協会の設立の意図でした。その目的を達成するため、翌年には東京市麹町区に本部を開設し、協会の事業として「実践女学校(実践女子学園)」と「女子工芸学校」を設立し、さらに新潟に「裁縫伝習所(新潟青陵学園)」、東京に「順心女学校(順心広尾学園)」を次々と創設していきます。

 その意気は実践女学校規則の「本邦固有の女徳を啓発し日進の学理を応用し現今の社会に適応すべき実学を教授し賢母良妻を養成する」という言葉に表現されています。現在の風潮からは異論があるかもしれませんが、一二〇年前の社会では革命ともいうべき目標でした。さらに欧米視察の影響により、歌子は社会を国際視点から理解していました。日清戦争が終了し、清国から多数の若者が留学してきますが、実践女学校は率先受入れてきたのです。

社会の支援に活動を拡大

 これらの教育活動以外にも、歌子は様々な社会活動を実行しています。日清戦争が終了し、社会に多数の遺族や負傷した兵士が発生しました。それらの人々を救済するため、幕末に男装で尊王攘夷運動に活躍した女傑の奥村五百子(図3)が明治三四(一九〇一)年に「愛国婦人会」を創設しますが、歌子は設立に協力します。愛国婦人会は以後も日露戦争や第一次世界大戦の遺族救済だけではなく、関東大震災の救済や復興支援にも活躍します。

図3 奥村五百子(1845-1907)
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