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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第20回 写楽を誕生させた 蔦屋重三郎(1750‐1797)

寛政の改革で暗転

 第九代将軍の徳川家重と第一〇代将軍の徳川家治の治世の期間(一七四五〜八六)は田沼時代という呼名もあり、老中首座であった遠江相良藩主の田沼意次が絶大な権勢を維持していました(図3)。そのような安定した期間の後半に重三郎の出版事業は繁栄していましたが、天明六(一七八七)年に田沼が失脚、翌年に奥州白河藩主の松平定信が老中首座となりました(図4)。

図3 田沼意次(1719-88)
図4 松平定信(1759-1829)

 田沼時代は経済振興を政策の中心として推進し、社会は発展して江戸や大坂などの都会では文化が花開いた一方、政治の腐敗や賄賂の横行などとともに、天明三(一七八三)年の浅間山大噴火による天明の飢饉が発生して農村は疲弊し、各地で一揆が頻発するなどの側面もありました。そこで松平は田沼時代の悪習を一掃して社会を再生する寛政の改革を実行します。

 時代の変化に敏感な重三郎は松平が老中に就任した翌年の天明八(一七八九)年に黄表紙『文武二道万石通』を出版し、時代は鎌倉時代に設定したものの、武士が幕府の政策転換に右往左往する様子を滑稽に表現しました。これは江戸の庶民に好評であったため、次々と類似の書物を発行しますが、強烈な風刺は幕府の忌避するところとなり発禁処分になってしまいます。

 さらに幕府は寛政二(一七九〇)年に書物や錦絵の出版取締命令を発表しますが、「白河の清きに魚も棲みかねて/もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が流行したように、この政策は悪評でした。そこで重三郎は江戸っ子の意地から山東京伝による幕府の政策を揶揄する書物を出版したところ、書物は絶版、京伝は手鎖五〇日、重三郎は財産の半分没収という刑罰になってしまいました。

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