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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第25回 騒乱の時代に歌人となった武士・西行(1118‐90)

崇徳上皇の御陵を訪問

 陸奥の行脚から帰京した西行は、これも明確ではありませんが、一一四九年頃に高野山に移動したとされます。三二歳でした。この五月に落雷によって高野山の大塔や金堂が焼滅しており、宮中に人脈のある西行は再建のための勧進の役割を期待されたと想像されます。この前後から、天皇の地位さえ政治に利用する長年の勝手な縁故主義の宮中人事の破綻が表面に噴出してくるとともに、京都は何度も火災に見舞われます。

 このような災害も加勢して白河上皇の専横による宮中人事の崩壊の兆候が次第に出始めてきましたが、孫の鳥羽上皇の一一五六(保元元)年の崩御を契機に、当然のように発生したのが子供の崇徳上皇と現役の後白河天皇の朝廷の勢力が二分して衝突する「保元の乱」でした。合戦は数日で後白河天皇側の勝利で決着しました。崇徳上皇は讃岐に配流され、多数の貴族は幽閉や流罪、武士は斬刑とされました。

 西行は讃岐に配流された崇徳上皇には頻繁に和歌を送付していました。一例として「その日より/落つる涙を/形見にて/思い忘るる/時の間もなし」という上皇への追慕の気持ちを表現した一首もあります。しかし一一六四(長寛二)年に上皇は配流の土地で四六歳の人生を終了します。そして三年が経過した六七(仁安二)年に西行は四国へと旅立ちます。親友の僧侶の西住と同行の予定でしたが、都合ができ出発は一人でした。

 四国を目指した経路は明確ではありませんが、記録されている和歌から推定すると、岡山の児島あたりから瀬戸内海の塩飽群島を経由して四国に到着したようです。四国での旅程も明確ではありませんが、四国霊場八一番札所になっている白峰寺にある崇徳院陵(図3)に参詣しているようです。この参詣については「よしや君/昔の玉の/ゆかとても/かからむ後は/何にかはせむ」という一首のみが記録されています。

図3 崇徳院陵

 江戸時代後期に出版された上田秋成の読本『雨月物語』の冒頭の「白峰」は西行が崇徳院陵に参詣して崇徳上皇の亡霊と対話するという内容ですし、崇徳上皇が怨霊となる場面を描写した有名絵師の錦絵も江戸時代に何枚も製作されており(図4)、「保元の乱」は有名な史実でした。上皇は歌人としても評価されており、小倉百人一首には「瀬をはやみ/岩にせかるる/滝川の/われても末に/あわむとぞ思う」が採択されています。

図4 崇徳院(歌川国芳)
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