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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第32回 自由に活動した天才 大野弁吉(1801−1870)

失脚した銭屋五兵衛

 ここで弁吉の金沢での活動に密接な関係のある銭屋五兵衛(通称は銭五)(図1)について紹介しておきます。銭屋は動乱の戦国時代が終了した時期に金沢に移住してきた初代が両替商、古着商、醸造業など手広く商売を展開しますが、ここに紹介する銭五の先代の時代に経営不振で一旦廃業しました。しかし銭五が三七歳になった一八一一(文化八)年に質流れの帆船を購入して海運事業を開始して再興に成功します。

図1 銭屋五兵衛(1774-1852)

 金沢の外港の宮腰(現在の金石)は北前航路を往来する帆船が寄港する重要な港湾であったため、銭五はコメの売買で大儲けし、千石船を二〇艘以上、それ以外の帆船も約二〇〇艘を所有し、全国各地に三四の支店を設置する当時の日本で有数の豪商に成長します。地元では加賀藩の勝手方御用掛の奥村栄実と結託して御用商人となり、藩が所有する商船の交易を一手に引受けて巨額の利益を獲得するようになります。

 鎖国政策の当時は海外との交易は禁止されていましたが、加賀藩に献上金を納入することにより黙認され、海外との密貿易でも莫大な利益を獲得します。北方では樺太に定住しているアイヌ民族と、国後と択捉ではロシアの商人と密貿易をしていました。さらに南方では香港や廈門どころかオーストラリアまで航海し、タスマニアには領地まで所有し、現在では紛失していますが、現地に石碑まであったとされています。

 しかし、七五歳になった銭五に痛恨の事件が襲来します。現在、金沢の北側にある河北潟の周囲は広大な田畑になっていますが、それは銭五が一八四九(嘉永二)年から私財を投入して干拓した成果です(図2)。しかし住民の反対などにより遅延した工事を挽回するため石灰を投入したところ、毒物を投入したと反発が発生し、関係する一一名が投獄され、銭五以下七名が獄死、銭屋の財産没収・家名断絶になってしまいました。

図2 干拓以前の河北潟(蓮湖)
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