奥寺 康彦さん(元プロサッカー選手・サッカー指導者)
奥寺康彦さんは日本人初のプロサッカー選手である。今でこそ珍しくはなくなった海外のプロサッカー選手の先駆けとしてドイツ・ブンデスリーガでこれも日本人初となる優勝を決めると、UEFAチャンピオンズリーグではアジア人初のゴールを決めるなど数々の功績を残した。今は横浜FCで代表理事を務めるかたわら、スポーツアカデミープロジェクトで後進を育てるが、その道のりは決して平坦ではない。秋田に始まるサッカー道を訊いた。
小学4年までを秋田で
昔は鹿角郡といわれた土地でね。温泉街ではあるんだけど凄く寂れたところで、町には旅館もひとつかふたつしかない、そこで母は働いていた。50年前の日本はどこもそうだったと思うけどとにかく貧しくてね。でも母はしょっちゅう留守をしたけど、祖父、祖母、父、妹の4人で暮らしていたので淋しさを感じることはなかったんですね。いつも学校から帰るとすぐ祖母の駄菓子作りを手伝ったり、水道がなかったので近くに湧き水を汲みにいったりしてね。酒の好きな親父を飲み屋に向えに行くのも僕の役割で、それはとても嫌でしたね。
その後、都会に転校に
親父の会社が倒産してね、それでやむなく家族は横浜に越したんです。僕はどちらかといえば引っ込み思案で内向的な性格なんで、土地に馴染むのはなかなか大変でしたよ。なにしろ自分から人に話し掛けられないもんだから友だち一人作るにも時間がかかってね。そんな調子だから1日だけ登校拒否児になった経験があって(笑)。家が会社の寮の中にあったので、隠れるところがたくさんあるわけですよ。それでそこに潜んでいたんです。そうしたら大騒ぎになってしまってね。僕はみんなに心配を掛けたのを深く反省して、それからは大丈夫でしたね。
サッカーとの出会いは中学に入ってから
実は最初、卓球部に入っていたんです。というのも家の寮には卓球台があって、そこでいつも大人たちが一緒に遊んでくれるわけですよ。小学校を卒業する頃にはかなり打てるようになっていて、自然、中学では卓球部に入ろう、となった。ところが僕の中学には卓球台が2台しかなくてね。新入部員は練習さえすることができなかったんです。そんな時に野球部に入部したはずの小学校からの友達が「サッカー部に入ろう」と誘いにきて。聞けば野球部も同じ境遇でね。あまり気乗りはしなかったものの、結局、強引な友達に誘われるまま一緒にサッカーに入部して。いや、僕ってそういう人間なんですよ(笑)。イヤイヤながらも人の後からついて行くタイプなんです(笑)。だからもしあの時、その友達が誘ってくれなかったらその後の僕のサッカー人生はなかったですね。