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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第28回 近代日本の社会基盤を整備した 前島 蜜(1835−1919)

 武家の出身である母親の教育は厳格で、前島が「夕鴉(ゆうがらす)/しょんぼりとまる/冬木立」という俳句で賞品をもらって帰宅したところ、「幼児からほめられたため自分の才能におぼれて大成しなかった人間は多数いる」と説教され、前島はこの言葉を生涯の教訓にしていたとされています。一〇歳になったとき、高田の儒学者倉石典太の私塾に入塾するため、一人で生誕の土地の実家から高田まで往復して勉強します。

 その時期には杉田玄白と前野良沢が苦心して翻訳した『解体新書』が流布して、江戸ではオランダ医学が話題になっていました。その情報を伝聞した前島は江戸で勉強したいと母親に相談したところ、「一旦方針を決定したら頑張って前進しなさい」と後押しされ、一二歳になった一八四七(弘化四)年、母親から授与されたわずかな金銭を懐中にして江戸に出発しました。そこでは写本の仕事などをしながらの耐乏生活でした。 

海外への視線

 ところが一八歳になった一八五三(嘉永六)年に人生の転機となる機会に遭遇します。アメリカのペリー艦隊が日本との通商を要求して四隻の軍艦で浦賀に来航したのです(図2)。そこで前島はペリー提督と会見する幕府の井戸石見守の従者になって浦賀に随行しました。浦賀で艦隊の威容を目撃し、国防を真剣に検討すべきであると全国の港湾や砲台の調査に旅立ちます。この直情径行の性格は生来のものでした。

図2 浦賀に来航したペリー艦隊(1853)

 早速、郷里の越後で母親と実兄に挨拶してから全国の視察に出発します。越後から日本海側を移動して下関に到達、関門海峡を横断して九州を一周、四国を経由して紀州、伊勢を視察して江戸に帰還しました。大変に迅速な行動ですが、十分な基礎知識もなく港湾や砲台を見学しても役立たないことを実感し、江戸で砲術や数学を勉強し、さらに幕府が一八五七(安政四)年に築地に創設した軍艦教授所の生徒となって勉強します。

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