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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第28回 近代日本の社会基盤を整備した 前島 蜜(1835−1919)

 一八五九(安政六)年には箱館の五稜郭の設計と建設をした武田斐三郎が航海技術を教育するために開設した諸術調所に入塾し、日本で製造された最初の洋式帆船「箱館丸」(図3)に乗船して二度も日本列島を周回する航海で実技を習得します。その関係で一八六三(文久三)年に幕府が派遣する遣仏施設に同行する機会がありましたが、一行が出発する日時までに江戸に到着することができず、貴重な機会を逸失してしまいました。

図3 復元された「箱館丸」

 そこで薩摩藩が一八六四(文久四)年に開校したしたばかりの洋学を教育する開成所の英語教師になりますが、家庭の事情などもあって短期で辞任して江戸に出戻り幕府の役人の前島錠次郎の養子として幕臣となり、前島来助と名乗ることになります。しかし次々と行動する性格に変化はなく、神戸が外国に開港されるという情報を入手して神戸に移動し、英語の能力を駆使して開港の準備に活躍し、注目されるようになります。

鉄道事業の計画作成

 そして一八六七(慶応三)年に第一五代将軍徳川慶喜が大政奉還を表明したため、慶喜の静岡への移動とともに前島も同行し、幕府の人々が江戸から移住してくるための長屋を準備したりします。明治政府は日本の首都を京都から大坂に移動する予定でしたが、前島は江戸へ遷都することが適切であるとの文書を明治政府の中心人物の一人である大久保利通に建言します。この建言が受領されて東京が日本の首都になりました。

 このような活動が評価され、前島は一八六九(明治二)年に明治政府から要請されて民部省改正掛として出仕することになります。前島の才能が敵方であった明治政府にも評価されていた証拠でした。早速、政府の参与であった大隈重信から鉄道建設の計画作成を依頼され、数日で東京と横浜を連絡する鉄道の計画「鉄道臆測」を提言し、これによって一八七二(明治五)年に日本最初の鉄道が実現しました(図4)。

図4 日本最初の鉄道(新橋-横浜)(1872)
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