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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第35回 高齢社会の手本となる貝原益軒(1630−1714)

博物学者としての益軒

 このように貝原益軒というと『養生訓』の著者として有名ですが、本質は近世を代表する博物学者です。その資質を象徴する大作が全一八巻の『大和本草』です。「本草」は薬用となる動植鉱物の総称ですが、中国の明代の学者の李時珍が二六年の歳月をかけて編纂し、死後の一五九六年に上梓した『本草綱目』が世界最初の本草の書物とされています(図3)。全五二巻の大作には約一九〇〇種の薬種が図版とともに収録されています。

図3 『本草綱目』

 この書籍は一種の百科事典で内容が斬新で図版も豊富であったため中国でも何度も印刷されていますが、中国での出版から八年が経過した一六〇四(慶長九)年には日本に到来し、次々と版刻されて刊行され、一四種類の出版が確認されているほど注目されていました。さらに原本を復刻するだけではなく、日本独自の百科事典を製作する活動も登場し、『花壇綱目』(一六六四)『訓蒙図彙』(一六六六)などが登場します。

 そのような一例が益軒が日本の動植鉱物を対象に編纂した『大和本草』で、国内で採集できる薬用の動植鉱物を図入りで網羅した内容です。一七〇九(宝永六)年に刊行され、付録と図版は益軒が逝去した翌年の一七一五(正徳五)年に刊行されています(図4)。『大和本草』が明代の『本草綱目』の刺激で実現したように、鎖国をしていた江戸時代の新規の学問領域の開拓には唐船がもたらす中国の知識が重要な情報でした。

図4 『大和本草』

 ところが益軒が並々ならぬ学識で発刊した日本最初の本草学書は後世の学者に影響をもたらし、平賀源内は一七六三(宝暦一三)年に『物類品隲』を、小野蘭山は一八〇三(享和三)年に『本草綱目啓蒙』を発刊しています。平均寿命が四〇歳程度であった江戸時代に、病弱ではあるものの現代の平均寿命に匹敵する八五歳まで活躍した益軒は『養生訓』や『五常訓』によって評価される人物ではなかったのです。

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