牛窪 多喜雄

牛窪 多喜雄さん(柔道家、接骨院、市議会議員)

 学校は五年制だった。青年は昼間は学校、夜は働きに出る。懸命に努力を続けると2年で家を持ち、伴侶を得る。30歳で接骨院を開業。子供の誕生を機に転居を考えるが、必ずしも視覚障害者に親切とは言えない社会環境、世間との軋轢は時間と共に増すばかりで、とうとうノイローゼになってしまった。

 髪は抜け落ち、目ばかり冴えて夜も眠れない。目の下の隈は日に日に濃くなった。そんなとき、カウンセラーをする妻の弟が、「兄さん、心が疲れたら体も疲れさせたほうがいいよ」とアドバイスをくれた。こうして、10年の時を経て柔の道は再び始動することになる。なに、リハビリには丁度いいだろう――、あれだけ得意とした柔道だ。軽い気持ちで再開した。それが全く勝てない。なにしろ相手が技をかけてくるタイミングが一切つかめないのだ。悔しい――。気持ちが爆発する。 それからというもの、ひたすらに柔道に没入した。気付けば、あれほど悩みの種だった社会との摩擦が嘘のように頭から消えていた。

 心が解放されると、次の日からはランニングを始める。自宅の周辺は当時、電源開発でどこも白いラインが張ってあった。牛窪さんの目にもその白い線だけはどうにか茫洋とした光の中に捉える事が出来たのだ。走り込みで鍛えた下半身はすぐに功を奏し、簡単には投げられなくなると、次は釣り手、引き手のコツも見えてくる。折もおりソウルパラリンピックで柔道が正式種目に。俺が金メダルを獲るんだ! 白いラインに導かれ人生は輝きを取り戻し始めた。

 参加した5輪では、金メダル以外にも多くの学びを得た。衝撃だったのは障碍者と健常者の垣根の高さだ。経営する接骨院に併設したバリアフリー柔道場はその克服の一助を担うのが狙いだ。議員を4期務め、人前での発言も増えるが、批判を恐れず、常に自分が本当だと思う事を話す。それが地域の、日本のためになる、そう信じる。9年後爆発的に増える高齢者に必要なケアマネージャーは百万人と言われる。すべての人が介護施設を利用するのは現実的ではない。在宅で余生を送るのに何が必要か――真剣に向き合う眼差しは誰よりもはっきりと未来を捉えている。

(月刊MORGEN archives2016)

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