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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第20回 写楽を誕生させた 蔦屋重三郎(1750‐1797)

 さらに分野を拡大し、まず浮世絵の分野に進出します。上記の三巻と前後して、浮世絵師の磯田湖竜斎が描写した美人の錦絵を「雛形若菜初模様」として順次発売して天明初(一七八一)年までの五年で一〇〇枚程度発売し、人気となります。また富本節という三味線音楽が流行したときには、著名な浮世絵師の美人画を表紙にして富本節の歌詞を印刷した『富本正本』を出版して大儲けします。

 このように世間の流行に敏感に対応したのが重三郎の商売が繁盛した理由ですが、安永四(一七七五)年頃から大人を対象とした絵本の一種である表紙に黄色の用紙を使用した「黄表紙」が流行しはじめると、早速、出版を開始し、『竜都四国噂』『夜野中狐物』などを最初として、恋川春町、山東京伝、四方山人など著名な浮世絵師を起用して、毎年、一〇種程を発刊して成功します。

次々と人気作家を輩出

 このような順調な業績を背景に、創業の吉原の書店の運営を手代に委任し、天明三(一七八三)年に都心の日本橋通油町(現在の日本橋大伝馬町)に「耕書堂」を移転します(図2)。その翌年には何枚もの吉原の遊女の絵姿を一冊にした『吉原傾城美人合自筆鏡』を発売したところ好調な売行きになります。この時期には喜多川歌麿が蔦屋に寄宿しており、作品を出版しています。

図2 耕書堂(葛飾北斎画)

 このような人気商品を次々と出版した効果で、商売はますます順調になります。本店を移転してから二年が経過して、山東京伝が文章と挿画を執筆した黄表紙『江戸生艶気樺焼』を出版したところ再版になるほどの人気作品となり、続編ともなる黄表紙『碑文谷利生四竹節』も売行き好調でした。京伝が人気作家になったのは重三郎の多大な支援の結果ということができます。

 このように重三郎の「耕書堂」との関係で活躍した戯作作家は『金金先生栄華夢』(安永四年)の恋川春町、『廓花扇観世水』(安永九年)の山東京伝、『椿説弓張月』(文化四〜八年)の曲亭馬琴など多数存在しますが、最大の貢献は喜多川歌麿と東洲斎写楽という江戸文化を代表する浮世絵師を社会に紹介したことです。ところが、重三郎の仕事に試練が襲来しました。

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