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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第23回 次々と画風を転換した異才・司馬江漢(1747-1818)

蘭学人士と出会い銅版画に挑戦

 このように江漢は狩野美信、鈴木春信、宋紫石などに師事して画風を変化させてきましたが、さらなる変化をもたらしたのが平賀源内でした。源内は本草学者、地質学者、医者など科学分野だけではなく、蘭画家(画号は鳩渓)、戯作者(風来山人)、浄瑠璃作家(福内鬼外)、俳人(李山)など芸術分野でも活躍した異能の人物ですが、家財道具をすべて売却して『ヨンストン動物図鑑』を購入したというほど蘭学にも傾倒していました。

 江漢は二七歳のとき源内の弟子となり、鉱山探査に同伴しますが、発見の見込みがわずかだと鉱山開発は断念します。しかし三三歳になった時期に源内との関係で蘭学を開拓していた前野良沢や大槻玄沢と出会うことになりました。良沢は杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周とともにオランダの医書『ターヘル・アナトミア』を『解体新書』として翻訳した人物で、玄沢は良沢と玄白の弟子で『解体新書』の翻訳を改定した人物です。

 江漢は、それらの学者が研究していたオランダの書籍に記載されていた銅版画の制作方法を会得し、一七八三(天明三)年に日本で最初のエッチングによる銅版画を制作しました。それは「三囲景」という題名で、隅田川左岸にある名所の三囲神社の周辺を描写し、筑波山も遠望する光景の作品です(図4)。しかもその作品をレンズを通して鑑賞する「眼鏡絵」にして、後述の全国を行脚するときには各地で紹介しました。

図4 「三囲景」(1783)

 さらに江漢は油彩画にも挑戦しています。日本で油彩画は一八世紀前半に登場しており、江漢が最初ではありませんが、源内の情報などにより荏胡麻油と顔料を混合した絵具で天明年間から寛政年間(一八八〇年代)にかけての作品が存在しています。その題材の多数は自身で所有していた一六九四年にオランダで出版された画集『人間の職業』を手本にしており、自身の独創による題材はそれほどありません(図5)。

図5 「西洋樽造図」(寛政年間)
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