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  • 過去に読書と教育の新聞「モルゲン」に掲載された記事からランダムでpickupし紹介。

清々しき人々 第25回 騒乱の時代に歌人となった武士・西行(1118‐90)

白河以北の陸奥を行脚

 鞍馬での生活は「わりなしや/氷る筧の/水ゆえに/思い捨ててし/春の待ちたる」という状態でしたが、出家した翌年の一一四一(永治元)年に宮中で異変が発生します。鳥羽上皇が出家して法皇となり、崇徳天皇を廃位にし、三歳の実子を近衛天皇にしたのです。そこで崇徳天皇の母親の待賢門院(藤原璋子)(図1)は出家することになります。さらに一一四五(天養二)年に璋子が逝去し、西行の人生に影響をもたらします。

図1 待賢門院(藤原璋子)(1101-45)

 出家してしばらくは京都周辺の東山、嵯峨、鞍馬などの草庵を転々としながら生活していましたが、その時期に陸奥を行脚しています。陸奥という文字が象徴するように、現在の福島県白河市にある白河の関所以北は「みちのく」と名付けられ、朝廷の権力の域外です。そのような地域を目指した理由は明確ではありませんが、一説では待賢門院もしくは鳥羽天皇の皇后である美福門院(図2)に失恋したことが原因とされています。

図2 美福門院(藤原得子)(1117-60)

 この時期の西行の行動は明確ではなく、生涯に約二三〇〇首の和歌を制作している多作の作家が「白河の/関屋を月の/もるからに/人の心を/とむるなりけり」という一首のみしか伝承されていないことも沈滞した気持ちであったことを推察させます。作家の富士正晴は西行の伝記に、この和歌は空洞のようで感動のない閑散とした印象をもたらすと記載していますが、失恋の旅路と理解すれば、納得できる風情です。

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