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清々しき人々 第12回 オリンピック大会で日本最初の女性メダリスト 人見絹枝(1907-1931) 

 この大会には役員二名以外に短距離走に三島弥彦、長距離走に金栗四三の二名のみが参加しましたが、シベリア鉄道を利用する一八日間もの移動も影響し、予選敗退や途中棄権という結果でした。それ以後は次第に派遣選手も増加しますが男子選手のみで、ようやく一九二八年の第九回アムステルダム大会に日本からも女性が参加し、素晴らしい活躍をしました。今回は日本から最初にオリンピック大会に出場した女性である人見絹枝を紹介します。

学生時代からスポーツで活躍

 人見は現在では岡山市内になる岡山県御津郡福浜村で特産のイグサを栽培する裕福な農家の人見猪作と岸江の次女として一九〇七年一月一日に誕生しました。子供の時代から友達は女子よりも男子が多数という活発な性格で、地元の言葉で「ばっさい(おてんば)」と評判でした。地元の福浜尋常高等小学校尋常科に入学しますが、依然として活発で男子生徒を圧倒していました。しかし学業成績も優秀で級長に指名されるほどでした。

 当時は女子が上級の学校に進学するのは例外の時代でしたが、人見の能力を理解していた父親の意向で進学することになり、倍率四倍の入学試験に見事に合格し、一九二〇年に岡山県立岡山高等女学校に進学しました。この学校は自宅から約六キロメートルの距離にある岡山市中心部にありましたが、毎日、徒歩で往復していました。これが以後、スポーツで抜群の能力を発揮する人見の足腰の鍛錬になったと推定されます。

 当時の校長である和気昌郎は文武両道を目指す教育をしており、生徒がスポーツの対外試合に出場することを推進し、人見は早速、能力を発揮します。入学の翌年、岡山県主催のテニス大会のダブルスの競技に前衛として出場し、当時の女子としては異例の一七〇センチメートルの身長を駆使して活躍、前年優勝の岡山県女子師範学校のペアを打破して見事に優勝しました。その結果、人見は「関西第一の前衛」と評判になります。

 一六歳になった一九二三年には岡山県女子体育大会に学校の代表として出場します。その時期に人見は脚気になっており、修学旅行にさえ参加できなかったのですが、学校の要請で走り幅跳びに出場しました。校医が同伴して試技が終了するごとに脈拍などを測定する決死の出場でした。ところが人見は四・六七メートルという日本女子最高記録を実現しました。人見としては優勝できれば、しばらく病気で寝込んでもいいという覚悟でした。

 翌年には創設されたばかりの二階堂体育塾(日本女子体育専門学校の前身)に入塾し、創設した二階堂トクヨの指導により技量を向上させます。その結果、一〇月には三日も連続した高熱の直後にもかかわらず、岡山県女子体育大会の三段跳びで一〇・三三メートルという当時の世界最高を記録します。翌月には東京で開催された陸上競技の全日本選手権に出場し、三段跳びで一〇・三八メートル、槍投げで二六・三七メートルを記録します。

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